RED U-35 グランプリ「RED EGG」受賞記念インタビュー
約束の日本一
日本料理界の新たなスターを発掘する「RED U‐35」。3回目となる2015年のグランプリ、レッドエッグは初の中国料理からの戴冠となる篠原裕幸氏。「日本一になる」という亡き母との約束を果たした今、「世界で活躍し、日本の中国料理界を変える」という自らへの約束と覚悟を、新たに胸に刻む。熱い大志を内に秘めた若き料理人に、これまでの闘いと未来について聞いた。
1泊2日に及ぶ過酷な闘い“志”に向けられた熱い期待
2015年の「RED U‐35」決勝は、前例のない過酷な合宿審査となった。応募465名の中から、3次に渡る審査を勝ち抜いた6人のファイナリスト(ゴールドエッグ)。決戦の地・軽井沢で、彼らを待っていた最終テーマは、「6人で審査員の1泊2日をおもてなしする」というものだった。
さっそく6人でディナーコースの準備へ。与えられた時間は食材の買い出しも含め、約8時間。フランス料理4人、日本料理1人、中国料理1人という顔ぶれのなか、唯一の中国料理のシェフ・篠原裕幸氏の闘いが始まった。
「正直、大変でした。自分の引き出しの少なさを痛感し、勉強がまったく足りないことを思い知らされました」と、篠原氏は激戦の2日間を振り返る。
厨房では、人数の多いフランス料理のシェフたちが主導権をとり、フランス語の調理用語が飛び交う展開。そんななかで篠原氏が担当したのは、「スープ」だった。篠原氏は「言いたいことが言えないもどかしさ」に苦しみながらも、自分が信じる料理に没頭した。
「コースのなかでフランス料理が続き、お酒も入っていたので、審査員は温かい料理が欲しいはず。難しいコンセプトは抜きに、純粋においしいと思ってもらおうとだけ考えました」と篠原氏。そうして仕上げた「信州ハーブ鶏の上湯スープ」は高い評価を受ける。「熱々の澄んだ上湯スープは、広東料理の真骨頂。熱が生み出すおいしさは、ほかのジャンルにはない、中国料理の際立った特徴です。この場にふさわしい料理だと信じていました」と語る。
その想いは、別室で6人の調理過程をつぶさに見ていた審査員団に、しっかりと届く。「あなただけが自分と闘っていた」と、審査員の1人は篠原氏に語り、労をねぎらってくれた。
受賞理由はそれだけではない。審査員長を務めた村田吉弘氏(「菊乃井」主人)は、篠原氏の「日本の中国料理界を変える」という志の大きさを讃える。「本物の中国料理の奥深さが、多くの日本人には伝わっていません。この状態を後輩に残してはいけない。香港で活躍できるシェフになり、日本人の中国料理を世界へ発信したい。それができれば、日本の中国料理界を変えられるはずです」(篠原氏)と、その目はしっかり未来を見据えている。
幼少時に中国料理に触れ、香港で出合った広東料理
中国料理の料理人になると決めたのは、「幼稚園生のとき」(篠原氏)。母の実家がある岡山で、ホテルの中国料理店に頻繁に連れて行ってもらったことがきっかけだ。高校3年生の夏には単身、1週間の香港旅行を敢行。ガイドブックを片手に食べ歩いた。
「このとき食べた料理の1つが、ガチョウのロースト。大きな窯で焼く焼き物は、上湯スープとともに広東料理を代表する料理です。このときの体験が、広東料理を目指す原点となりました」と話す篠原氏。それからは、広東料理一筋。辻調理師専門学校で学んだ後、広東料理の名門「赤坂璃宮」の門を叩いた。29歳のときには再び香港を訪れ、約2年間、複数のレストランで武者修業。また、フランス料理の成澤由浩シェフの店でも3カ月の研修を経験した。「香港の店はものすごくスピード感があって、エネルギッシュ。成澤さんの店は何1つ手を抜かず、隅々まできっちり仕事をする。仕事ってこういうものなんだと、教えられました」(篠原氏)。これらすべての経験が、現在の篠原氏の糧となっている。
2015年3月、亡くなる前の病床の母に「日本一になる」ことを約束した篠原氏。その約束を果たした今、今後の豊富を聞かれると、「僕がやるべきことは今までと変わりません。フレンチで多くの日本人シェフがフランスで活躍しているように、中国料理の日本人シェフを、中国で認めさせたい。まずは香港進出。これは、僕が生きている間にやらなければと思っています」と、力強く語る。また、副賞の「世界一憧れる料理店に食べに行ける研修」は、行き先をパリの3つ星フレンチレストラン「アルページュ」に決めた。「違うジャンルの料理と国に触れることで、中国料理の魅力をあらためて認識できるはず。パリで活躍している日本人シェフからも刺激をもらいたい」と、笑顔の篠原氏。新たな飛躍へ、また一歩を踏み出したところだ。