2015/06/30 挑戦者たち

株式会社 たき航グループ 代表取締役 滝 航也 氏

横浜を基盤に繁盛店を展開。スタイリッシュな空間、1頭買いした和牛をリーズナブルに提供し、焼肉業界に大きなインパクトを与えた。夢を描く社員を支援し、海鮮業態の出店、海外進出などにも挑戦する。

URLコピー

人材育成の基本はコミュニケーション。飲食業に夢を持つ若者たちを応援したい

ホルモン焼店、焼肉店で修業を積んだ滝航也氏が率いる株式会社たき航グループは、横浜を基盤に繁盛店を展開。スタイリッシュな空間、1頭買いした和牛をリーズナブルに提供するスタイルは、焼肉業界に大きなインパクトを与えた。“のれん分け”で飲食業に夢を描く社員を支援する一方、海鮮業態の出店、海外進出など、挑戦はまだまだ続く。

――まずは、飲食業界に入られたきっかけを教えてください。

もともと独立志向が強く、サラリーマンとして働きながら、いずれは自分で何かをやりたいと思っていました。でも、その何かがわからない。まずは己の精神力を鍛えようと、20歳の時にキックボクシングのジムに入門しました。そのジムの会長が、ホルモン焼の店を経営していたことが、飲食業に目を向けるきっかけとなりました。会社勤めをしながら、プロとしてリングに立ち、ジム仲間と会長の店に通ううち、飲食業に興味がわいてきたのです。そして、もやもやしていた何かが、飲食店の経営という目標を見つけたとたん、すっきり晴れました。

23歳で会社を辞め、会長の店で修業を始めましたが、小さな店なので学べることには限界があります。数カ月してさらなる勉強のため、焼肉のチェーン店に移りました。この時には、2年後に自分の店を持つとはっきり目標を決めていたので、肉の知識や仕入れ、さばき方などを貪欲に吸収しましたね。

――そして、その目標通り、2年後に独立を果たされたのですね。

チャンスをくれたのも、ジムの会長でした。会長が新店を開くことになり、ホルモン焼の店を譲渡していただけることになったのです。経営権を買い取り、屋号も内装もそのままで、初めて飲食店のオーナーになりました。スタートとしては幸運でしたね。

譲り受けた当時の月商は、約140万円。7坪の大きさで5卓という食堂のような店でしたが、大きな焼肉店を経験していた私にとって、満足できる金額ではありません。駅前で立地は悪くないので、もっと売上を伸ばせるはずだと戦略を練った末、商品力を高めることを決断。輸入牛を使っていたカルビを和牛に変え、価格は据え置きました。原価率よりも満足度を上げることを優先した結果、これが当たって客数は順調に増えていきました。

私も客席に出て積極的にお客様に接し、着実に顔なじみの方も増えていきました。すると、月商は300万円まで伸びたのです。意識していたわけではないのですが、コミュニケーションを密に取ることで、お客様を囲い込めていたのだと思います。

1970年、横浜生まれ。会社勤めとキックボクサーを両立していた23歳の時、飲食業界での起業を志す。ホルモン焼店、焼肉店で修業を積み、25歳で店舗の譲渡を受けて独立。28歳で会社を設立し、独自ブランドを立ち上げる。現在、横浜を中心に12店舗を展開。

――その後、この店を手放され、独自ブランドの焼肉店を立ち上げました。

7坪5卓では、月商300万円が限界でした。そこで、1から店を作ることを決意しました。横浜出身なので、横浜で物件を探しましたが、こだわったのはエリアより、駅前という立地でした。ホルモン焼の店も、駅前だったことが集客に威力を発揮したからです。不動産屋回りは初めてということもあり、物件探しは難航しましたが、妥協せずに探し回った末、相鉄線の星川駅前の物件が見つかりました。官庁街に近かったので、業態はカジュアルなホルモン焼ではなく、本格的な焼肉店に決めました。1996年にオープンしたこの店が「焼肉どうらく」で、当社としての実質的な1号店でもあります。

肉は付き合いのあったメーカーと契約し、和牛を1頭買いしました。仕入れ価格が安定するのがメリットで、和牛をリーズナブルに提供することができるからです。そして、一般的な焼肉店のイメージにはあまりない、おしゃれで清潔感のある内装にしました。

19坪9卓で、売上は初月が400万円、2~3年後に800万円になり、その後、1000万円の大台に乗せることができました。2001年9月に発生した狂牛病の影響で、売上が減った時期もありましたが、半年くらいで客足が戻ってきました。和牛のおいしさに加え、お客様とのつながりを大事にしていたことが要因だと思います。

――2号店の出店が2005年。1号店から間が空いたのはなぜですか?

当初から多店舗展開は頭にありましたが、私自身が職人として厨房に立っており、肉のさばきなど調理を人に任せることができなかったからです。

店が軌道に乗ったので、2005年に2号店「ちからや」を出店しましたが、本格的に多店舗化に踏み切ったのは、2008年からです。以後、私は経営に徹し、東日本大震災の年を除いて、年間2店舗のペースで出店しています。そうやって少しずつ信用を得ていくなかで、ビルの関係者や商業施設のリーシング(テナント仲介)担当者さんから、声をかけていただけるようになり、物件面で苦労することは少なくなくなりました。ただ、各店舗で肉をさばくのに職人が必要なため、ハイペースでの出店は避けています。

――御社の店舗づくりの考え方と、人材育成について教えてください。

「よりよい食材を、より美味しく、より安価に、最高のおもてなしを」が当社の経営理念。高品質で、安心・安全な商品を安価で提供することは絶対条件です。内装は、業態や店舗によって変えていますが、スタイリッシュなデザインの空間を基本に、個室も設けています。そして、接客はお客様とのコミュニケーションを重視。アルバイト向けのハウスルールはあっても、接客マニュアルはありません。

人材育成も、基本はコミュニケーション。私がいくらがんばっても、1人では何もできません。社員や従業員は大事な「ファミリー」。私自身、頻繁に各店舗を回り、1人ひとりと言葉を交わして想いを伝え、後ろ姿を見せています。また、店長や店長を目指すスタッフには、夢と具体的な目標を持たせ、それを達成したら報奨金や休暇などの待遇面で応えています。さらに、私自身がジムの会長から経営権を譲渡されて店を持てた経験があるので、店長たちにも“のれん分け”という形式で店を譲り、経営者になる道を拓いています。来年には2人の店長が、のれん分けで独立する予定です。

「DOURAKU」では宮崎牛をはじめ、銘柄和牛のみを使用。1頭買いで仕入れているので、希少な部位を含む様々な味を楽しめる

――今後の出店予定と、会社としての展望をお聞かせください。

店舗数は今年のうちに12店舗になり、そのうち4店舗が横浜駅西口に集中しています。今後は、現在3店舗あるみなとみらい地区への出店を強化し、9月には横浜の象徴・ランドマークタワーに出店します。まだまだ発展途上で、ビジネス層、観光客、地元住民など客層も幅広く、大きな可能性のあるエリアだと感じています。

業態では昨年、初めて魚介がメインの「海鮮問屋 お魚 どうらく みなとみらい店」を出店しました。肉に関してはスペシャリストですが、魚はまだまだ未知の分野なので、今後はこちらも極めていきたいと考えています。

現在、FCが1店舗ありますが、今後の店舗展開の形としては、先にもお話しした社員へのれん分けを中心に進めていきます。私の考え、やり方を熟知した人間なら信頼がおけますし、飲食業に夢を描く若者を応援したいという想いもあるからです。

そして、海外への出店も視野に入れ、来期には売上を20億円まで伸ばすことが目標です。

海鮮問屋 お魚 どうらく みなとみらい店(神奈川・横浜)
http://r.gnavi.co.jp/j9hbxz4b0000/
同社初の海鮮業態として2014年、みなとみらいのオフィスビルにオープン。「活イカの姿造り」など、その日に入荷した鮮度抜群の魚が楽しめる。
DOURAKU(神奈川・横浜)
http://r.gnavi.co.jp/e631108/
みなとみらい駅から徒歩2分。落ち着きのある大人の空間と、最大18名に対応する7部屋の個室を備え、厳選した黒毛和牛をリーズナブルに提供する。

Company Data

会社名
株式会社 たき航グループ

所在地
神奈川県横浜市西区みなとみらい4-6-2

Company History

1999年 「焼肉どうらく 星川店」出店。有限会社たき航グループ設立(その後、株式会社に改組)2005年 「ちからや」出店
2008年 「焼肉 極(KIWA)横浜本店」、「焼肉どうらく 横浜西口店」出店
2014年 「海鮮問屋 お魚 どうらく みなとみらい店」出店
2015年 6月「焼肉どうらく ココロット鶴ヶ峰店」、9月「DOURAKU・CORRIDAランドマーク店」出店予定

※本記事の情報は記事作成時点のものであり、情報の正確性を保証するものではございません。最新の情報はご自身でご確認ください。

ぐるなび通信をフォローする