2012/03/19 Top Interview

千房株式会社 中井政嗣氏

自信と誇りに溢れた日本を、お好み焼とともに創造する-大阪・千日前でスタートした「お好み焼 千房」は、庶民的な粉物料理のお好み焼をステーキや鉄板焼と融合させ、独特の価値を付与して全国へ進出を果たした。

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自信と誇りに溢れた日本を、お好み焼とともに創造する

39年前、大阪・千日前でスタートした「お好み焼 千房」は、庶民的な粉物料理のお好み焼を、ステーキや鉄板焼と融合させ、独特の価値を付与して全国各地への進出を果たした。背景にあるのは、経営者としての確固たる信念と、「人」に向ける眼差しの温かさ。「人」への思いと外食産業の役割について、中井政嗣氏に語っていただいた。
千房株式会社 代表取締役中井 政嗣Masatsugu Nakai1945年奈良県生まれ。中学卒業後、乾物屋に丁稚奉公に出る。その後、義兄が経営する洋食店での修業後、独立して大阪・千日前に「お好み焼 千房」を開店。大阪の味を独特の感性で国内はもちろん、海外にも広める。また現在、社会問題化している青少年の教育に対し、経験をふまえた独特の持論が社会教育家として注目を集め、教育委員会・PTA・経営者団体・企業などを対象に、年間約90回の講演を行なう。2009年6月、テレビ東京系「カンブリア宮殿」、同年8月、NHK「ルソンの壺」に出演。著書に『できるやんか!』『それでええやんか!』(潮出版社)など。

お好み焼のブランドを高め、食文化としての定着に貢献

大阪でお好み焼といえば、「千房」を思い浮かべない人はいない。それは「千房」が、1973年の創業以来、お好み焼のイメージを塗り替えるのに、大きく貢献してきたからにほかならない。
「四十数年前、お好み焼屋といえば、お世辞にもかっこいい職業とはいえませんでした。小さい店舗で油と煙にまみれながら、細々と営業するというイメージです。その頃、私は西洋料理店でシェフの修業をしていました。これはかっこいいんです。白い制服にコック帽をかぶってね。修業を始めた頃は、ジャガイモやタマネギの皮をむくだけでも、ワクワクしたものです。ですから、正直、お好み焼屋なんてやりたくないと思っていました」と、中井政嗣氏は若かりし日を振り返る。

しかし、縁あって、中井氏は大阪・住吉の小さなお好み焼屋を引き継ぎ、独立。1967年、22歳の時だ。だが、この店は経営が軌道に乗り始めた6年後、家主に返却するため、閉店を余儀なくされる。
「当時、洋食店と和食店も始めていたのですが、これを機に、情熱を注ぎ込んでいたお好み焼一本で自分の会社を作ろうと考えました。お好み焼はシンプルなだけに奥が深い。従業員が自信と誇りを持てるお好み焼屋にしようと決意したのです」。

ここから「千房」の歩みが始まる。味の追求はもちろんだが、通常のレストラン以上に行き届いた接客を展開。さらに新業態「ぷれじでんと千房」では、お好み焼をステーキや鉄板焼と融合させ、高級レストラン並みの風格を備えたブランドとして確立した。その結果、百貨店のレストラン街や駅ビルへの出店を果たす。「こんなことは、それまで考えられないことでした。百貨店にも駅ビルにも、お好み焼屋が出店したのは私たちが初めてだと思います」。

さらにシェラトン都ホテルが、大阪進出にあたり「ぷれじでんと千房」に出店を要請。商談が交わされる高級ホテルの一画で、ステーキと並んで食されるほど、お好み焼は高い認知度を獲得した。「千房」だからこそ実現した快挙といえる。

飲食店の価値の7割は、働いている「人」の力

「千房」が、こうした発展を勝ち取れた秘密はどこにあったのだろうか。その問いかけに対して中井氏は、「人」への熱い思いを語る。
「飲食店というのは、7割が『人』の要素で成り立っているといっていいでしょう。一枚のお好み焼きのうち、3割は原材料費や家賃・光熱費など。残りの7割、調理・接客・運営コストなどはすべて『人』にかかっています。つまり、『人』でお金をもらっている。100人いいスタッフがいても、1人の失敗で店が傾くことさえある。だから、一人ひとりが何を考えて、どう働くかが本当に大切です。味や立地はある程度はマネできますが、絶対にマネできないのが『人』。飲食店にとって、『人』そのものが商品です。これを大事に育てなければ、いい店にはなりません」

スタッフもお客も取引業者も、「すべて千房の仲間であって、家族のようなもの」とも言う中井氏。仲間を歓待するのにマニュアルはいらない、それぞれのやり方で最高のもてなしをすることが大切というのが、中井流の接客術であり、スタッフ教育だ。
「創業当時は、ちょうど第一次オイルショックで不況の真っただ中。でも、お客さんが来ないのは、店に問題があるからだと考えていました。どうしたら、お客さんに喜んでもらえるのかを徹底的に考えて、自分の頭と体でできるもてなしはすべて試みました」と中井氏。その精神はどんなマニュアルにも、決して盛り込めないものだったのだ。

しかし、近年の世相を見て、千房もマニュアル作りを余儀なくされているという。会社が大きくなり、従業員数が飛躍的に増えたことも、要因の一つではある。しかし「無難に仕事をこなそうとする姿勢が顕著で、おもしろくない若者が増えた」と苦言を呈する。
「好き勝手にやることが個性ではありません。吉本の芸人は、台本を完璧にマスターしたうえで、台本を捨て、そこに自分の芸を載せる。これからの人材育成は、それに似ています。マニュアルで基本を徹底的にマスターし、そのうえで基本を捨て、自分の個性を光らせる。そうすれば、おもしろいことを思い切ってできる人材が育つと思いますよ」。大阪人らしいユニークな話の中に、若者への期待と信頼がのぞく。

社会貢献の回路を探り、外食産業のきずなを模索

来年は創業40周年を迎える。オイルショックもバブルも、バブルの崩壊による傷もその身に引き受けてきた。そして今、「経済は『経世済民』。すなわち世を經(おさ)め、民を濟(すく)う活動である」と胸に刻む。

2年前から取り組んでいるのは、受刑者の採用だ。刑務所に募集を出し、刑務所で面接して内定を出し、仮出所後に採用する。しかも、採用者の名前も含めてすべて公開。一企業の取り組みとしては、極めて異例といってよい。
「反対意見はもちろんありました。受刑者がいると知ったら、怖がって来なくなるお客さんがいるかもしれない。でも、良いことをしている店と知って、来てくれる人が増えるかもしれない。損得で考えたら半々です。でも、善か悪かで考えたら、絶対に善でしょ?」と中井氏。働く場がないことが再犯率を上げているのなら、働く場を提供すればいいと考えるのだ。「こんな形でも社会貢献になればという気持ちです」と穏和な眼差しを向ける。

さらにその目は、外食産業全体を見渡して、こう語る。「いい食材を安く手に入れることは大切ですが、そのために生産者の生活が立ち行かないような仕組みではいけません。市場の絆を強め、生産者も含めて外食産業全体が成り立つようでなければなりません。ですから、第一次産業を巡る動向がとても気にかかっています。この国が活力を持って生きていけるように、お好み焼を通して自分は何をやれるのか。今それを考えています」。

今年67歳。時に厳しく、時にユーモラスに語るその口調には、戦後の荒波を生き抜いてきた強さとしなやかさがにじみ出ていた。

Company History

1967年 11月

大阪・住吉にてお好み焼店オープン

1973年 12月

大阪・千日前に「お好み焼 千房」オープン

1981年 5月

西武百貨店八尾店に出店(百貨店出店第1号)

1981年 10月

JR 静岡駅直結の駅ビル、
パルシェに出店(地方出店第1号)

1982年 9月

大阪・道頓堀に新業態
「ぷれじでんと千房」オープン

1985年 10月

都ホテル 大阪に出店(ホテル出店第1号)

1990年 3月

ハワイ・ホノルル店開業

1992年 7月

道頓堀にグルメビルオープン

1997年 9月

冷凍お好み焼製造販売開始

2006年 4月

大阪・難波に新業態「千房Elegance」
オープン