“陽はまたのぼる”と信じて、コロナ禍に打ち出したフルーツパーラー事業によって黒字化を達成!~WOOD HOUSE株式会社 代表取締役 氏田 善宣 氏

大分の竹田市でもつ鍋居酒屋「陽はまたのぼる」を創業し、2014年には「居酒屋甲子園」の優勝も果たしたWOOD HOUSE株式会社の代表取締役・氏田 善宣 氏。倒産の危機を乗り越えた経験や、コロナ禍への戦略を聞いた。

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目次
福岡の焼き肉店で店長を務め、寂れた故郷を盛り上げるため独立
同級生と力を合わせ、地元の生産者とつながることで、繁盛店へ成長
居酒屋甲子園優勝から一転、倒産の危機に
コロナ禍で打ち出したフルーツ専門店をFCで全国展開
“地域必愛人”の育成し、食を通じて地域で最も必要な企業に
「リーダー×一問一答」&「COMPANY DATA」

地域に必要とされ、愛される人材育成と店づくりを通して、街になくてはならない企業に

 故郷である大分・竹田市でもつ鍋居酒屋「陽はまたのぼる 竹田本店」を創業し、2014年には「居酒屋甲子園」の優勝も果たしたWOOD HOUSE株式会社の代表取締役・氏田 善宣 氏。その後、熊本地震などにより倒産の危機に遭うが、業態の見直しや組織改革で立て直すことに成功。コロナ禍においても、新しく打ち出したフルーツ専門店をFCで展開し、逆境の中でも果敢に挑戦を続けている氏田氏に、これまでの歩みと今後の展望について話を聞いた。

――福岡・天神で飲食業の経験を積んでいらっしゃいますが、飲食業界に入るきっかけは?

 高校卒業後、福岡に出て、ダイニングバーでアルバイトをしながらダンスに熱中しました。ダイニングバーを選んだ理由は、賄いが付くことと、カッコ良いイメージだったから。その後、系列の焼き肉店に異動して、ここで商売のノウハウや面白さを学び、新規出店したもつ鍋店の店長を任されました。

 当時は第2次もつ鍋ブーム。店はかなり繁盛して2店舗目の立ち上げにも携わり、その後もいろいろな役回りを経験させてもらいました。5~6歳の頃から経営者になることへのあこがれが漠然とありましたが、商売や経営の魅力を知ることができたのはこのときでした。

 ぼくが感じた飲食業の最大の魅力は、目の前で商品の製造や提供、会計が行われ、「今、提供したドリンクの原価は◯◯円で、売価が△△円だから、粗利は▢▢円」と、自分が今生み出した利益がすぐに計算できる=自分の仕事がどう利益につながっているかが分かりやすいことでした。当時お世話になった会社の社長は数値管理に強く、原価率が1%上がると利益をいくら失うのか、店がどうなるのかを徹底的に教えてくれました。現場を動かしながら数字を上げる経験をさせてもらえたことは、大きな財産になったと思います。

 一方で、店長を任されていた22歳くらいのころ、「居酒屋甲子園」創設者の大嶋啓介氏が運営する居酒屋「てっぺん」の“本気の朝礼”の映像を見て衝撃を受けました。全員を同じ方向に向かわせるチームづくりに感激し、自分も同じことをしたいと考えた結果、気心の知れた地元の同級生数名に声をかけてスタッフとして働いてもらうことにしました。ぼくは学生時代から地元でガキ大将のような存在で、「氏田がやるなら面白そうだから、一緒にやろう」と言ってくれる友人が多かったこともこのスタイルに行き着いたことと関係しているかもしれません。この方法がうまくいき、業績アップにもつながると手応えを感じたため、独立する際も同級生を巻き込んで店づくりをすることにしました。

1983年、大分・竹田市生まれ。高校卒業後、福岡・天神のダイニングバーでアルバイトを始め、系列の焼き肉店を経て正社員となり、もつ鍋店の店長と新規出店などを手掛ける。2012年、28歳で独立し、故郷の竹田市に「陽はまたのぼる 竹田店」を出店。2014年「第9回居酒屋甲子園」でグランプリを獲得し、注目を集める。現在、大分県内で8店舗を展開し、ウエルネス事業にも参入している

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――独立の地として、修業を積んだ大都市・福岡ではなく、商圏の小さい故郷の大分県竹田市を選んだのはなぜでしょうか。

 端的に言えば、地元を盛り上げたかったからです。もともと、25歳で会社を設立して店を出すことを目標にしていましたが、準備が間に合わなかったので目標を28歳に切り替え、25歳のときに資本金1円で会社だけ作りました。事業は何もしていないのですが、「25歳で独立する」という自分への約束を何らかの形で守りたかったからです。ここからの3年間は、暇さえあればどんな店を出そうか考えていました。当時は福岡・天神での出店を想定していて、業態や店名、メニュー構成、想定月商などをリストにして、15業態くらいは考えました。

 そしていよいよ独立する場所や業態を具体的に考え始めたころ、一時的に帰郷した竹田市で、夜の閑散とした状況に愕然としました。最も人でにぎわうはずの土曜日の夜、飲食街に人通りが全くないのです。ちょうど、しばらく竹田に滞在する予定だったので、この期間だけでも地元に還元しようと、毎月同級生を集めて飲み会をしました。そこで友人と将来の夢を語り合ったり、地元の現状について話し合う中で、「この街を出て自分だけが福岡で成功しようとするのは何か違う。自分が今すべきことは飲食業で地元を盛り上げることではないか」と考え、福岡ではなく地元での独立を決意しました。

 1号店の「陽はまたのぼる 竹田本店」は、もつ鍋業態。当時のトレンド業態だったことと、周辺で競合が少ないことが理由でしたが、逆に言うと竹田にはもつ鍋文化が根付いてないため、集客できるか不安もありました。そこでイートイン以外の販売ルートとして、もつ鍋商材の宅配事業を先行してスタート。また、「地域に応援される店」でないと長続きしないと考え、「名水百選」に選ばれた湧水を汲みに行ってスープに使ったり、周辺の生産者や業者を回って野菜や肉を仕入れるなど、地元の食材にフォーカスしました。修業時代から培った福岡の仕入れルートを使うほうが簡単でしたが、店が繁盛することで地元にお金が落ちる構造を作ることが地域に愛される店への第一歩だと考えたんです。

 開業後は、「竹田にもつ鍋のニーズはあるか」という懸念を忘れるくらい好調で、最初はほぼ1人で運営していまいたが、すぐに友人の力を借りなければ店が回らなくなるほど業績も右肩上がりに。翌年には2号店を大分駅近くに出店した後、大分市と竹田市にも1店舗ずつ出店して、「2年以内に4店舗」という目標をクリアしました。

1号店の「陽はまたのぼる 竹田本店」。多彩なもつ鍋が楽しめることや、親しみやすく行き届いた接客、食材を含めて地元に密着した店づくりが功を奏して人気店に。当初は氏田氏1人で1階のみで運営していたが、あまりの人気ぶりに2階も開放し、同級生をスタッフに迎え入れるなどして、さらに多くのファンを獲得した

――2014年に「居酒屋甲子園」で優勝し、業界にその名をとどろかせることになります。

 「居酒屋甲子園」の優勝は本当に大きかったと、今でも思います。今までにない店づくりや仕組み作りをしたわけではなく、ただ「自分たちが何のために飲食業をしているのか」という想いだけで勝ち取った優勝だと思います。自分たちがやってきたことは間違っていないと自信にもなりました。

 一方、もともと検討していた東京進出を取りやめたのも、「居酒屋甲子園」の優勝が一因です。優勝したことで、当社の存在意義は“地域とともにある”ことであることを強く意識すると同時に、東京のレッドオ―シャンで斬り合いをすることに、どんな意味があるのかと思い直したからです。実際、1号店を出して以来、竹田の街には飲食店が徐々に増え、少しずつ活気を取り戻していました。優勝したことによって、自分たちの価値や存在意義を再認識でき、初心を忘れてはいけないと思えたんです。

 しかし、このあと店舗で火災が発生したり、窃盗被害に遭ったり、熊本地震で営業ができなくなるなど立て続けに苦難が訪れて業績も悪化し、2期連続で債務超過に陥りました。ただ人災や天災は失速のきっかけに過ぎず、本質的な原因は組織作りにあったと思っています。僕や幹部らの想いばかりが先行して全スタッフに理念の共有が徹底されておらず、現場レベルでの育成体制や管理が甘くなっていたんです。加えて、労務環境の整備も不十分で、若手スタッフがぼくたちのやり方に付いて来れなくなっていました。さらに、主力の幹部たちは独立志向が強く、社員がそれぞれ別の方向を見ていたのではないかと思います。そこで、あらためて理念の共有をする場を作り、幹部ともしっかりと話し合って、「まずは皆で同じ方向を向いて全力で会社を立て直そう」と意思統一を図りました。

 同時に業績回復のために取り組んだのが、新しい業態の開発です。もともと、竹田市のような小さな街では、同じ業態での店舗展開は難しいので、多業態化に舵を切るのは必然です。それまで主力にしていたもつ鍋業態は、季節によって売上の落差が大きく、夏の売上減を冬に挽回して黒字にするのが毎年のパターンでした。しかし、経営危機を経験したことで、仮に人災や天災などで冬の売上が飛んだら、立て直すのは容易ではないと考えるようになったんです。そこで季節による売上の変動が少ない大衆業態を開発することにしました。

 こうして、2017年3月、大分駅前にオープンしたのが「NEO大衆酒場竹田はつひので」です。3年後に再開発が予定されていた駅前40坪の一等地を、通常の4分の1以下の家賃で借りられたのが、成功のポイントでした。開業前は月200万円の純利益を見込んでいましたが、予想以上に好調で、純利益は年間3,200万円超。2年後に大分駅前にオープンした立ち飲みの「せんべろお町」とともに繁盛し、目標通り1年で黒字転換に成功しました。

2017年、大分駅前の好立地に出店した「NEO大衆酒場竹田はつひので」。固定費を抑えたことで、純利益は年間3,200万円超を記録し、債務超過から1年での黒字転換に大きく寄与した

――数々の逆境を乗り越えてきましたが、コロナ禍にはどのように対峙したのでしょうか?

 今までの苦難は、いわば自分たちのせいで起こったものがほとんどでしたし、ある意味、火の粉は自分たちにしかかかってきませんでした。しかし、コロナ禍は飲食業界はもちろん、日本全体が打撃を受けています。大分県は休業や営業時間短縮への協力金が少なく、試算したところ、7,000万円の赤字になることが分かり、生き残る道を別に見つけるしかありませんでした。

 まずは、テイクアウトやデリバリーを行うほか、食事ニーズに応えるためにラーメンを開発するなどして、全体の売上を昨対比60~70%にまで持っていきました。ただ、大分駅近くにある地下100席の居酒屋については、大幅な赤字が避けられない状況でした。そこで、赤字を補填する新しい事業・店舗を立ち上げる必要性を感じ、小売りで稼げて、横展開できる業態として注目したのが「フルーツサンドを主力とするフルーツ専門店」でした。フルーツサンドは断面のビジュアルも含めてトレンドになっていましたし、成功すればFCで展開してコロナ禍に苦しむ多くの居酒屋の助けになるとも考えました。

 さっそく商品の開発に取り掛かり、2020年6月、フルーツ専門店「フルーツパーラー 陽はまたのぼる」を大分駅近くに出店。トレンドの浮き沈みに関係なく長期経営できるように、流行りのフルーツサンドを軸にしつつ、フルーツ系のスイーツも用意するほか、夜限定でイートインスペースも稼働させてフルーツサワーを販売する業態です。これが予想以上に好調で、FCのスキームを作り、現在、福岡、東京、北海道、福島に16店舗を展開中。どの店も初月の月商は500万円。月商1,500万円の店舗も生まれています。

 同時に、食材原価の高騰にも対応した業態として開発したのが、2022年4月、大分駅の近くにオープンした中国料理店「熱波点心 四川小皿料理 愛心包」です。原価を下げるために点心の皮から作るなどして食材原価を20%以下に抑えつつ、手作りを徹底することで職人を自前で育てる狙いもあります。スタートしたばかりですが、おしゃれな内装と小皿提供の気軽さが女性や若者にも喜ばれています。

2020年6月に出店したフルーツ専門店「フルーツパーラー 陽はまたのぼる」。全国に16店舗を展開しており、初月の平均坪月商30万円超の人気店に成長している
2022年4月、大分駅の近くにオープンした中国料理店「熱波点心 四川小皿料理 愛心包」。多彩かつ本格的な中国料理を少人数で楽しめることから若い女性を中心に集客。店舗の2階にはサウナも併設させ、「飲食×サウナ」という新しい需要の喚起にも挑戦している

――今後の目標と展望を教えてください。

 既存店を守り、もう1つの柱としてFC事業を軌道に乗せることが今期の目標。出店は続けますが、出したい店ではなく「地域が求める店」という発想を大切にしていきます。また、売上を追うのではなく収益を指標にすべきだとも思っています。

 大事なのは、企業理念に掲げた「地域必愛人」、つまり“地域に必要とされ愛される人を目指す”こと。この理念をベースに人、お店を育て、30年後に「食を通じて地域で最も必要とされ愛される企業になる」ことが最大のビジョンです。

 ぼくは今38歳ですが、45歳までに会社をグループ企業化し、社長を5人輩出したいと考えています。現在、飲食事業 食材卸事業 ウェルネス事業の2社3事業ですが、グループ企業で互いに助け合いながら何があっても踏ん張れる強い組織を作りたい。また、一次産業にもぜひ参画したいですね。

リーダー×一問一答

■経営者として一番大切にしていること
「誠実」「素直」「パーソナルモチベーション」

■愛読の雑誌や書籍、Webサイト
「月刊食堂」

■日課、習慣
週2回(水・日曜日、月間120km)のランニング

■今一番興味があること
サウナ施設経営

■座右の銘
実るほど頭を垂れる稲穂かな

■尊敬している人
松下幸之助、孫正義

■最近、注目している店舗・業態
どの地方にもある地域に必要とされ愛されている町中華めぐり。町中華をオープンしたから

■COMPANY DATA
WOODHOUSE株式会社
大分県竹田市竹田町262
https://陽はまたのぼる.com/
設立:2009年
ブランド・店舗数:7業態 8店舗※フルーツパーラーライセンスプロデュース事業15店舗
従業員数:70人(社員20人)