2013/12/19 特集

RED U-35 グランプリ受賞記念特別インタビュー 杉本敬三シェフ

若き料理人を発掘する日本最大級の料理人コンペティション「RED U-35」。初代グランプリに輝いたのは自らを“独学者”と呼ぶ杉本敬三シェフ。受賞までの道のり、料理人としての哲学、今後の夢について聞いた。

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RED U-35 グランプリ受賞記念特別インタビュー

“独学者”の横顔

豊かな才能と夢、可能性を持つ、若き料理人を発掘する日本最大級の料理人コンペティション「RED U-35」(RYORININ's EMERGING DREAM)。初代グランプリ=RED EGGに輝いたのは、自らを“独学者”と呼ぶフレンチの奇才・杉本敬三シェフ。オーナーシェフとして日々、自分の料理を追求する杉本氏に受賞までの道のり、料理人としての哲学、今後の夢について聞いた。

杉本 敬三 シェフKEIZO SUGIMOTO1979年、京都府福知山市出身。子供のころから料理をすることが好きで、小学校3年生のときに料理人になることを決意。19歳で、尊敬するシェフ・谷昇氏のアドバイスを受けて渡仏。食材が豊富なシュノンソーやリモージュといった田舎町に滞在し、ホテルレストラン「ボンラブルール」などのシェフを務める。12年間に及ぶ修業を経て帰国し、2012年、東京・新橋にフランス料理店「レストラン ラ フィネス」をオープン。現在に至る。

子供の頃から自分の作る味が一番好きだった

2013年11月4日に行われた料理人コンペ「RED U-35」(RYORININ's EMERGING DREAM)の授賞セレモニーで、グランプリの名前が読み上げられた瞬間、杉本敬三シェフは壇上で飛び上がって喜びを爆発させた。6月から始まった厳しい審査を経て、応募総数451人の中からファイナリストに残った6人のシェフのうち、オーナーシェフは杉本氏ただ1人。「正直、優勝できるとは思っていませんでした。時間内(100分)に完成品2皿と、審査員試食用の12皿を作る決勝審査に向けて、リハーサルをしなければなりませんでしたが、私には店を守る責任がありますので、多くの食材費や時間をかけられなかった。ですから、自分のありのままの姿を見てもらうしかないと、腹をくくりました。そこを含めて評価してもらえたことが、本当にうれしかったですね」と、5カ月以上に渡った挑戦を振り返る。

最終審査の調理作品は、「日本の親子丼をフランス料理として再構築した」という独創的な一品。旨味を凝縮したコンソメをワイングラスで供するところに、杉本氏ならではのエスプリが光るが、自らを「autodidacte(オトディダクト=独学者)」と称する杉本氏の料理スタイルは、どのように形成されてきたのだろうか。

京都・福知山市に生まれた杉本氏は、物心つく頃から料理のおもしろさを感じていたというが、決して特別な環境があったわけではない。「釣り好きの父が釣ってきた魚を、母が下ろすのを手伝ったり、父と散歩したときに見つけたつくしやふきのとうなどを、佃煮や天ぷらにしたりしていました。とにかく料理が好きで、サッカー少年が誰に言われなくても黙々とリフティングをするのと同じ感覚で、暇があると料理をしていました」(杉本氏)。8歳のときにはすでに自分の包丁と砥石を持ち、料理人になることを決意。「この頃から、自分が作る味が一番好きでした。味付けや調理法を教えられても、こうした方がもっとおいしいと、いつも思っていました。だから、誰かに教わろうという気持ちは、最初からあまりなかったですね。生意気だと言われるかもしれませんが、それもひとつの個性だと思っています」。そう語るように、小学生の頃にはすでに“独学者”としての片鱗をのぞかせていたようだ。

そんな杉本氏だから、19歳で単身渡仏し、そのまま12年間フランスで修業したことは、自然の成り行きだったのかもしれない。「日本ではどうしても年功序列という枠組みがある。自由に学んで、存分に働くにはフランスの方がいい。フランスではきちんと働きたかったので、滞在許可も労働許可もとって働いていました」。

独学でフランス語を習得し、調理技術だけでなく、フランス料理の歴史的背景や文化までをも吸収した杉本氏。誰にも師事せず、レシピも持たず、自分がおいしいと思ったものを、自分がおいしいと思う状態に仕上げる。そのための基本の技術として、フランス料理をしっかりと身につけ、帰国。そして、念願の自分の店をオープンした。

一人ひとりの客に合わせ、五感で作る珠玉の料理

今、杉本氏はこれまでに培った料理人としてのすべてを、東京・新橋の「レストラン ラ フィネス」に注いでいる。「ムニュ・セゾン」と「ムニュ・フィネス」のコース、それに、土曜日だけのランチコースが基本。椅子は40席あるが10人で満席とし、すべての料理を自らの手で作り上げる。

「仕入れは生産者に直接電話を入れ、食材の状態を確かめてから発注します。届いた食材を手にとり、その日のお客様を思い浮かべて、メニューを決めるのは営業開始の1時間前くらいです」と話す杉本氏。一人ひとりの客に合わせて五感をフル稼働させ、渾身の一品をつくり出す。書き出したレシピはなく、二度と同じ料理にはならない。そんなところにも、こだわりがうかがえる。

将来の目標を「料理人として歴史の教科書に載ること」と言い切る杉本氏。料理は美術や音楽、芸能と同じ文化であるはずなのに、料理人がその名を歴史に刻むことは、日本ではほとんどない。そこに一石を投じたいという熱い想いがあるからだ。そんな杉本氏に、若く才能ある料理人の夢を応援する「RED U-35」への応募を勧めたのは、氏が慕うシェフの一人、「ミチノ・ル・トゥールビヨン」の道野 正氏だった。

「通常、料理コンテストに優勝するためには、お金と時間が必要です。私にはどっちもなかったので、最初は関心がありませんでした。ところが、道野さんが『このコンテストは、ほかとは違うぞ』と教えてくれたのです。応募要項にはレシピを書く欄以上の広いスペースで、自分の料理や夢について書く欄があり、それを見たら、思わずはみ出すほどに書きたくなってしまいました」と語る杉本氏。見事、栄冠を手にした今、自身の未来像をどう描いているのか問うと、「30代は“職人”として精進し、『料理人としてここまでできるんだ!』というものを達成して、同業者に評価される存在になりたい」という答えが帰ってきた。教科書に載るには偉人にならなければいけない。そのためにはまず、職人としての“偉人度”を高めたいというのだ。「そうすれば、私と一緒に働きたいという人も増え、いずれは自分の持っているものを後進に伝えていく時期が来るはず。今はまだ、私自身も『ラ フィネス』も無名ですが、今回の優勝で多くの人に知られることを、何よりありがたく思っています」。壮大な目標への一歩が今、確かに踏み出されたようだ。

「R.E.D. Tokyo 2013 “Ris pilaf, Egg and chicken, Don(丼), Tokyo(東京シャモ)”」最終審査調理作品米と卵と鶏肉を使って、日本の親子丼をフランス料理として再構築した作品。極上のコンソメの旨味、見た目のインパクト、香りのマリアージュが楽しめる一品として、高い評価を得た
決勝審査会の調理で審査員に応対する杉本シェフ。アシスタントも付けず、楽しそうに取り組む姿が、多くの審査員の注目を集めた
初代グランプリ(RED EGG)に輝き、笑顔で歓声に応える杉本敬三シェフ(2013年11月4日、東京都内)。6人による激闘を制した
Restaurant La FinS
(レストラン ラ フィネス)東京都港区新橋4-9-1 新橋プラザビルB1http://r.gnavi.co.jp/duv849g60000/新橋駅から徒歩5分のビル地階にあるフランス料理店。杉本シェフ自ら腕をふるい、ムニュ・セゾン(15,000円)、ムニュ・フィネス(22,000円)、ランチコース(土曜日のみ、8,000円)を提供。伝統を重んじつつ独創的な一皿が味わえる。