2016/04/19 挑戦者たち

株式会社 まつりグループ 代表取締役 飯田 昌登 氏

名古屋で8店舗を展開する株式会社まつりグループ。率いる飯田昌登氏は経営者であると同時に料理人でもあり、料理のクオリティとコストパフォーマンスを追求する。そんな飯田氏の歩みを聞いた。

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コミュニケーションを大切に、人材を育て、目標を達成したい

名古屋で居酒屋、料亭、寿司店など8店舗を展開する株式会社まつりグループ。率いる飯田昌登氏は、経営者であると同時に料理人でもあり、素材、調理技術など料理のクオリティにこだわりつつ、コストパフォーマンスを追求。全員がホール業務と調理、両方をこなす社員たちとともに、店をつくり上げている。そんな飯田氏のこれまでと現在、これからを聞いた。

――どのようなきっかけで、飲食業界に入ったのか教えてください。

子供の頃は、飲食業が嫌いでした。実家が寿司店で両親はいつも忙しく、“おふくろの味”も知らずに育ちました。そんな両親のような生活は嫌だと思っていたのです。一方で出前を手伝うと、お客様が褒めてくれるのがうれしくて、料理をするのも好きでした。

学生時代は野球に夢中で、高校時代は甲子園を目指しましたが、夢は叶わず、3年生の夏の大会が終わった後、ファストフードでアルバイトをしました。そこで、自分が調理したものを笑顔で食べている人たちの姿を見て、飲食業っていいなと思うように。そして、手に職を付けようと料理人になることを決め、日本料理の道を選びました。

――修業が厳しい日本料理の世界で、早くから頭角を現したとか。

就職した名古屋の「日本料理 四季」は、板場が30人以上もいる店で、きつく叱られることも日常茶飯事。でも、野球部の厳しさと比べたらなんてことはありませんでした。もともとアグレッシブな性格なので、何事にも挑戦し、吸収していきました。その頃は時計がライバル。とにかく少しでも早く、いろいろなことを覚えたかった。

店では刺身、煮物、煮物補佐、焼場、天ぷらの5つのポジションを順番に担当する5人が重要なのですが、4年目にたまたま1つ空きができ、そこに選ばれました。ある日、先輩に5つの中でどれが好きか聞かれ、「カウンターに立てる刺身と天ぷら」と答えたら、「お前は変わっているな」と言われました。僕はお客様と接しながら調理をすることが好きでしたが、先輩たちは「お客様に気を遣うからカウンターに立ちたくない」と。この人たちとは価値観が違うと感じて、6年で退職。その後は割烹料理店を経て、郷土料理店を複数展開する会社に移りました。

1971年愛知県蟹江町生まれ。高校時代は球児として甲子園を目指す。卒業後、名古屋の「日本料理 四季」に就職。その後、割烹料理店、郷土料理の株式会社奥志摩グループを経て、2000年11月に1号店を出店。現在、株式会社まつりグループ代表取締役として、名古屋市内に8店舗を展開。

――29歳で独立1店舗目の「まつり」、翌年には2号店を出店されましたね。

飲食業界に入った時から、20代で独立するという目標があったので、郷土料理の会社では経営も勉強し、29歳10カ月で独立することができました。

最初に出店した「まつり」は、客単価4500円の居酒屋で、料理に関しては妥協せず、原価をかけて伊勢エビ、アワビなどの高級食材を使い、刺身のつまからポン酢まですべて手作り。それが認められてプロの料理人もお客様として来店する繁盛店になりました。

最初は店舗を増やすつもりはなく、1店舗で十分と思っていました。でも、社員たちの給与を上げるためには、1店舗では限界がある。そこで2店舗目の出店を決め、1号店で得た利益をつぎ込み、近くに「まつり」2号店を出しました。信頼していた社員を店長に置いてすっかり任せていたのですが、これが大失敗。2号店にはほとんど顔を出さず、店長ともまったくコミュニケーションを取らなかった結果、別のスタッフから「店長が遅刻ばかりして、ランチも勝手に休んでいる」と聞かされ、がく然としました。そのときには、店は大赤字になっていました。

1号店を片腕の社員に頼み、僕が2号店に回りましたが、一度落ちた売上を上げるのは難しかった。さらに、1号店の店長も頑張ってくれていましたが、「板長がいないなら帰る」というお客様もいて、2号店だけでなく、1号店の売上も落ちてしまいました。

――そこから、どのようにして会社を立て直したのでしょうか?

最終的に通帳の残額は、18円という状況でした。もう限界だと感じ、積み立てていた会費で温泉に社員旅行へ。そこで実情を打ち明け、店を閉めると伝えたんです。すると、「給料無しでも頑張るので、店を潰さないでください!」という言葉が返ってきました。その想いに突き動かされ、旅行から帰ると車や時計など、売れるモノは全部売りました。そして、覚悟を示すために丸坊主になったのですが、その翌日には男性スタッフたちも全員丸刈り、女性スタッフもショートカットにしてきたんです。「こいつらのために、死ぬ気で頑張るぞ」と決意しました。現在、当社のナンバー2の小栗(たかし)も、その時にいた社員の一人です。

それから2号店は閉め、1号店は年中無休にして閉店時間は午前4時から午前6時まで延長。ランチ営業も始め、文字通り死ぬ気で働きました。そうすると、同業の人たちが自分の店を閉めた後に来店してくれるなどして、売上はV字回復。その後、「愛・地球博」が開催された2005年に、名古屋駅近くの物件の話をいただき、古民家を改装した「個室居酒屋 花火 名古屋駅前店」を出店。周辺にはホテルが多く、万博関係者や観光客などで連日満席が続き、ブレイクにつながりました。

――それから順調に出店を続け、主力の「ぴち天」も開発されましたね。

その後、人材も順調に育ったため、料亭「錦三山車楼(きんさんだしろう)」や寿司店を出店。さらに2010年には、現在の主力ブランドとなる「魚河岸本舗 ぴち天」をオープンしました。ヒントになったのは大阪で訪れた店。新鮮な刺身と天ぷらを手頃な価格で提供し、繁盛していました。これは名古屋でも受けると考えたのです。ピチピチの魚と天ぷら、そして、名古屋で天下を取るという意味を込め、「ぴち天」と名付けました。

店づくりで大事にしているのは、コストパフォーマンス。「ぴち天」では、灰皿はお客様から言われなければ交換しませんし、手数料がかかるクレジットカードは取り扱いません。サービスや人件費のコストを抑える代わりに商品に還元し、徹底的にクオリティを高めています。こうしたコンセプトが受け入れられ、現在、「ぴち天」は4店舗となり、おかげさまでどの店も繁盛しています。

しかし、撤退を余儀なくされた業態もあります。岡山にある回転寿司「いわ栄」さんで快くスタッフが修業させてもらい、出すことができた回転寿司店です。売上は高かったのですが、商品力にこだわり過ぎて食材のロスが大きくなり、家賃の高さもあって利益が出ない。残念ながら閉めましたが、この時に入社してもらった寿司職人のおかげで、その後、「ぴち天」にも寿司を導入することができました。

厨房・ホールの両方をこなせる万能な社員たちが飯田氏を支える。写真は夏の親睦会での1コマ

――今後の出店計画や、会社としての将来の展望をお聞かせください。

目標は2020年までに売上10億円、2023年頃には20店舗で売上15億円。出店エリアは愛知だけでなく、隣県の岐阜や、さらに、アジア圏への進出も視野に入れています。

ただ、店舗を増やすには人材が欠かせません。2店舗目の失敗でコミュニケーションの大切さを痛感したので、今は2週間に1回、料理説明会や勉強会、店長会議や幹部会議を行い、月1回は繁盛店を視察。全員で認識を共有し、チームで店づくりをしています。

また、当社は社員比率が高く、長く勤務している社員も多い。彼らが歳を重ねた時、ゆったりしたペースで働けるよう、温泉地に菜園付きの旅館を作る構想も温めています。でも、慌てることはしません。「人事を尽くして天命を待つ」がモットーですから。

錦三山車楼(愛知・名古屋市中区錦)
http://r.gnavi.co.jp/n056303/
VIPルームも備える全席完全個室の店。魚介やA5ランクの和牛など食材、季節感にこだわった本格的な懐石料理を堪能できる。
魚河岸本舗 ぴち天 本店(愛知・ 名古屋駅)
http://r.gnavi.co.jp/n056305/
名古屋駅から徒歩約2 分。活気のある店内で、新鮮な魚介の刺身、寿司、揚げたての天ぷらをリーズナブルな価格で楽しめる人気店。

Company Data

会社名
株式会社 まつりグループ

所在地
愛知県名古屋市中区錦2-7-21 まつりビル3F

Company History

2000年 1号店の居酒屋「まつり」オープン
2002年 「まつり」2号店をオープン
2005年 「個室居酒屋 花火 名古屋駅前店」オープン
     料亭「錦三山車楼」オープン
2008年 「華昌すし」オープン
2009年 「魚河岸本舗 ぴち天 本店」オープン
2010年 「ぴち天 錦丸」オープン
2011年 「魚河岸本舗 ぴち天 みなみ丸 名駅南」オープン
2012年 「立ち食い寿司 ピチマル」オープン
2013年 「金山魚市場 ぴち天」オープン

※本記事の情報は記事作成時点のものであり、情報の正確性を保証するものではございません。最新の情報はご自身でご確認ください。

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