感謝を忘れず、街の資産を創る。目指すのは“西東京の雄”
数字に捉われず、普遍的な価値を創出し続ける─。2001年の創業以来、「その街で一番のレストランを作る」というシンプルな想いを原点に、進化を遂げてきた株式会社MOTHERS。そのために人を育て、チーム作りを進める代表取締役の保村良豪氏に、修業を積んだグローバルダイニング時代の思い出を交え、店作りに対するこだわり、そしてこれからの夢について伺った。
――元々役者を志していたそうですが、どのようなきっかけで外食業界に入ったのですか?
芝居のレッスンに明け暮れていた19歳の頃、グローバルダイニング(当時・長谷川実業株式会社)が運営するラ・ボエム表参道店にたまたま行きました。そこで、店長だった古里太志さん(現・株式会社SEED-TANK 代表取締役社長)のサービスの格好良さに衝撃を受けたのです。自分もあの人みたいになりたい、この店の一員として働きたいと思い、次の日にはすぐ面接に行き、アルバイトとして採用してもらいました。
古里さんをはじめ、お店の先輩たちは本当に素敵で、輝いている人ばかりでしたね。喋り方や仕草を見よう見まねで真似して、少しでも近づこうと努力しました。ほかにもチームプレイの大切さや、誰に対しても感謝の気持ちを持つこと、勝ち続けることの大切さ、責任感など、本当にたくさんのことを学びました。
その後、正社員になり、3カ月で「ラ・ボエム表参道店」の店長に立候補して就任しました。これは最年少・最短期間のレコードで、時期尚早という声もたくさんありましたが、とにかく自信があったし、古里さんに教わったことを体現して、挑戦したくて仕方がなかったんです。ときには会社から言われたことを無視したこともありました。
――果敢な挑戦ですね。店長としてどのようにお店作りに取り組んだのでしょう?
こだわったのはチーム作りです。これは、現在の当社の店作りにも受け継がれていることでもあるのですが、僕は仲間を知ることこそ、チーム作りの極意だと思っています。仕事もプライベートも関係なく、語り合ったり、ときには思いをぶつけあったりすることで、圧倒的な力を持つチームができあがるのです。
当時も、メニューは系列店と変わらない分、サービスの向上を徹底しました。各セクションのウエイターをどう磨き上げるか。全体の統一感、入口からアテンドのスピード、ドリンクを提供するスピード、かける音楽…お店の花形ウエイターであっても、モチベーションを上げて働いていないなと思った人は、容赦なく洗い場に戻しました。アルバイトも含めて完全実力主義でしたね。一時的に売上が伸びなかったり、スタッフが辞めてしまったときは悩みましたが、「ラ・ボエム」の後に店長をやらせてもらった三宿の「ZEST」でも、落ちていた売上を半年で回復することができました。このときの成功体験は大きな自信となり、僕の人生の糧となっています。
あの頃が、僕の青春のすべてと言っていいでしょうね。古里さん、新川義弘さん(現・株式会社HUGE代表取締役社長)、石田聡さん(現・サイタブリアCEO)、現在もグローバルダイニングにいらっしゃる久保信二さんたちには言い尽くせないほどお世話になり、心から感謝しています。
――MOTHERSをオープンさせた経緯と、お店作りのコンセプトを教えて下さい。
古里さんが独立することになり、僕も一緒に退職して参加した矢先、東大和市で母が営んでいた飲食店の経営が悪化したのです。それで、古里さんの店を離れて経営を立て直した後、自ら起業して、地元の東大和市にイタリアンレストラン「MOTHERS」をオープンしました。店名には、母への想いを込めています。
店作りはグローバル時代に学んだことが基礎になってはいますが、同じことをするだけではダメだとも思っています。例えば、「MOTHERS」ではウエイターに対して、顔と名前をお客様に覚えていただくために、何分でもよいのでお話しなさいと言っています。そして周囲のスタッフは、その分の作業をフォローする。この辺りはグローバルの「1分ルール(各テーブルの接客は1分以内)」とは違います。
また、自分自身の感性を生かしたお店作りも大事です。あくまで、僕が生まれ育った中での経験や感性を軸に店を作ってきたからこそ、他には真似のできないお店になっているのだと思います。
――レストランを経営するうえで、もっとも大事にしていることは何でしょう?
「新しい街の創造」が、当社の理念です。地域密着で、街で一番のレストランを作り続けることを目指してきた結果、たまたま通りかかったからじゃなくて、わざわざ来店してくださるお客様が増えていった。そして、例えば今では、「立川に行ったら、MOTHERSだよね」などと言ってもらえるようになりました。ちなみに、新規出店の際に、僕は利益率など数字の計算をしたことがありません。もちろん想定はしますが、それで売上が確保できるわけではない。大事なのはやはり、お客様が来たいと思う価値のあるお店を作ること。
思えば、初めて2001年に「MOTHERS」をオープンしたときは、手を真っ黒にしてひたすらポスティングをしたものです。3日間かけて、街中のあらゆる会社やお店に挨拶に行きました。これは、若い頃に学んだ「掃除や雪かきをするときは自分の店の前だけではなく、周囲も行なうこと。それが商売の基本」という考え方が生きています。その街で商売をさせていただいているという感謝の気持ちは、飲食店を経営するうえで常に持ち続けていかなければいけないと思っています。
――現在、御社が力を入れていることと、今後の目標を教えて下さい。
4月に、立川駅前にオープンしたピッツェリア「CANTERA(カンテラ)」は、スペインサッカーにおける下部組織「カンテラ」から名付けました。そこではサッカーの技術だけでなく、人としての教育もきちんと行なって生え抜きを育てています。それと同じように、カジュアルな業態である「CANTERA」の現場で若い子を育てて、「MOTHERS」へ続くタテのラインを作りたかった。常に競争心を持ってもらうために、場所もあえて立川駅南口にある「MOTHERS」の隣に作りました。お互いの店長たちは燃えていますよ。勝つために必死になることで、成長しています。創業して12年目を迎え、新たなブランドを築くためには、自分たちが作った既存のものと戦わなくてはいけない。「CANTERA」は来年、新店の出店を考えているので、それまでにどこまでレベルを上げられるかが勝負ですね。
ただ、「MOTHERS」に関しては、店舗数ありきで増やすことは考えていません。お店は人。人が成長するから、店も成長する。おいしいものを安く提供する努力も必要ですが、お店は人という原理原則を間違えては、店舗運営はうまくいかないと思います。大事なのはやはり、時代が変わっても風化しない普遍的な価値と、誰にも真似できないお店を作ること。実は創業してから、僕はいつ景気が良くて、いつ悪かったのか知りません。実際、当社の売上は景気に左右されていないので、メニューの単価も変えていません。基準はあくまで自分たちの提供している価値で、それが高いか安いかはお客様に判断してもらえばいい。僕たちがすべきことは、「街の資産」と言われるようなレストランを作り続けること。そして、“西東京の雄”と言われたいですね。
Profile
やすむら よしたけ
1975年
東京都立川市生まれ
1994年
「ラ・ボエム」での古里太志氏との出会いをきっかけに、飲食業界へ。
長谷川実業株式会社(当時)の正社員になった後、最短・最年少レコードを更新し、表参道「ラ・ボエム」の店長に就任
2000年
古里氏の独立とともに、グローバルダイニングを退社。
2001年
独立して有限会社マザーズを設立。東京都東大和市に「MOTHERS」をオープン。
Company Data
会 社 名
株式会社MOTHERS
所 在 地
東京都立川市柴崎町2-1-6 シンコービル3F
店 舗 名
「MOTHERS ORIENTAL」「MOTHERS 立川南口店」「MOTHERS 東大和店」「Kunitachi Tea House」「CANTERA」「MOTHERS 吉祥寺店」「TACHIKAWA BARU(委託店舗)」「GORAKU SHOKUDOU(委託店舗)」