世界中から料理人が集まる店を日本に作りたい
日本最大級の料理人コンペティション「RED U-35」(RYORININ's EMERGING DREAM U-35)。2024年11月に第11回大会が行われ、イタリア・トリノにある「La Credenza(ラ クレデンツァ)」で料理人を務めている加藤 正寛 氏がグランプリ「RED EGG」を獲得した。
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「RED U-35 2024」グランプリは加藤 正寛 氏(イタリア「La Credenza」)に決定!
大手食品メーカーの営業マンだった加藤氏は、一念発起してイタリア料理店の料理人に。さらにスロベニアでの修業を経て、現在はイタリアに拠点を移し、海外で腕を磨いている。「RED U-35」の最終審査で披露した料理「人生に無駄はない」に込めた思いや、これまでの歩み、そして日本の飲食業界が抱える課題にどう向き合っていくかなど、料理人として描く未来を伺った。
目次
・「RED U-35」最終審査で表現した自身の歩み
・胸に秘めた食への思いから、脱サラして料理人に
・海外修業で得た学びと自信
・日本の飲食業界に感じるフードロス&働き方の課題
・メニューもサービスもすべて英語の店を日本に
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「RED U-35」最終審査で表現した自身の歩み
――グランプリ受賞おめでとうございます。まず最終審査の料理に込めた思いを教えてください。
ぼくは料理人としてのスタートが遅く、大学卒業後は大手食品メーカーに就職。料理人を目指したのは26歳でした。料理人になった当初は、会社員だった4年間を「無駄な時間だった」と思っていましたが、今振り返ると決してそんなことはありませんでした。
ぼくは営業職でしたが、常にクライアントの立場に立って課題を見つけ、解決策を提案することが仕事でした。これは、料理人に求められることと同じだったんです。料理人はお客様がどういう状況にあり、どんな食事を望んでいるのかに寄り添って、最適な料理を提案するのですから。
そこで、最終審査の料理として、営業職時代を過ごした四国にフォーカス。愛媛県の鹿肉、徳島県の椎茸、高知県の麹、香川県の漆器を選びました。イタリアから四国の生産者と連絡を取り、時間を見つけて現地に行き、鹿は生捕りにしてもらってと殺から関わるなど食材を集めました。最終審査で出した料理「人生に無駄はない」は、イタリアンをベースにおきつつ、四国の食材の持つ魅力をひとさじのスプーンに込めた自信作です。
審査員の方々に実食していただく際には、ぼくがカウントダウンをして皆さん同時にスプーンを口に入れていただき、口の中でどんな味の変化が起こっていくかをぼくが“実況中継”するスタイルに挑戦しました。耳から得られる情報と口の中で感じる味をつなげることで、さらに味わいが増幅するのではないかと考えたためです。
以前は無駄だと思っていた会社員時代、イタリアでの修業、これまでの人生のさまざまな経験を思いながらオリジナルなストーリーを料理で表現しました。審査員の方々が、それを受け止めてくださったのではないかと感じています。
胸に秘めた食への思いから、脱サラして料理人に
――大手企業の営業職から料理人に転身したのはなぜですか。
料理は子どもの頃から好きで、特にパスタが好き。母の日や父の日には、手料理を振る舞いました。一方で経営者を目指す気持ちもあり、大学は経営学部。パスタ好きが高じて、やるならイタリア料理店だと考え、イタリアへ短期留学もしました。でも、両親に就職を勧められ、それでも料理から離れたくなかったので食品メーカーに就職しました。
就職先は歴史のある、誰もが知る安定した会社。でも、しだいにやりたいことをやらずにいる自分が情けなくなって……。そのころ、有給休暇を利用して、あるベンチャー企業でインターンをしたのですが、その会社の挑戦的な社風に刺激され、「自分もぐずぐずしている場合ではない!」と退職して夢を追うことにしたのです。
同じころ、叔父が東京で沖縄料理店を開いたので、まずはその店で働きました。イタリア料理も学びたかったので、半年後から休日を利用して、週に1回、鎌倉のイタリア料理店で2年間、無給で働かせてもらいました。その後、働きぶりが認められて、系列の高級イタリア料理店へ転職が叶い、イタリア料理に集中できるようになりました。
今でも思い出すのは、鎌倉で働き始めたばかりのころ、皿磨きを指示されたのですが、「指紋がついているぞ! ちゃんと磨け!」と厳しく叱責されたんです。つい数カ月前までは数億円の売上で会社に貢献していた自分が、今はお皿1枚すら満足に磨けない。その事実に打ちのめされ、この世界の厳しさと自分の現在の立ち位置を思い知らされました。情けなさと悔しさで厨房の隅で密かに泣いたのを覚えています。
海外修業で得た学びと自信
――2023年8月には念願の海外修業に挑戦されたそうですね。
ヨーロッパの、ここぞと思う店に履歴書を送っていたのですが、そのうちの一つ、スロベニアの「Hiša Franko(ヒシャ フランコ)」が5週間のテスト生として受け入れてくれたのです。「世界のベストレストラン50」に入るミシュラン三つ星店。ここでは、自分の力量とともに「ベスト50」の現場を知ることができました。その後、イタリアの「La Credenza」が受け入れてくれることになり、現在に至ります。
どちらの店でもさまざまな学びがあり、特に日本での常識が通用せず固定概念に囚われてはいけないことを痛感しました。また、イタリアでの生活ではアジア人に対する差別も経験しました。一方で、日本にあるイタリア料理店はレベルが高いことや、ぼく自身も料理人として予想以上に通用したことで、自信を得ました。ぼくが作った賄いのパスタを、イタリア人の料理人が褒めてくれ、レシピを聞かれたこともあります。
実は「Hiša Franko」にいたとき、今回の「RED U-35」で準グランプリを受賞した中村 侑矢(ゆうや)さんもともに働いていたんです。彼はこのとき2023年の「RED U-35」の審査中だったことから、「来年は2人でファイナリストになろう!」と、スロベニアの地で盛り上がっていたのですが、それが今回実現できたのもうれしいです。
日本の飲食業界に感じるフードロス&働き方の課題
――海外修業も2年目に入りました。今後、どんな料理人をめざすのでしょう?
日本で修業したイタリア料理をベースに、海外での学びを織り込んだ表現をしていくと思います。日本ではイタリア料理というとニンニクとオリーブオイルですが、イタリアの北西部のトリノにある「La Credenza」ではニンニクはいっさい使いません。イタリアはエリアによって食材も調味料も異なるのです。だから、イタリア料理の真髄の1つは、その土地の食材を使ってその土地で楽しむものではないかと、ぼくなりに解釈しています。
これは環境問題にも関係しています。世界中から食材を集めて最高の一品を作る料理人ではなく、その土地で収穫した環境負荷の少ない食材で、納得できる一皿を作る、そんな料理人になりたいと思います。
実は、海外修業の直前に、1カ月ほど短時間アルバイトとしてチェーンの飲食店十数店で働いてみたんです。チェーン店の課題を知るためですが、驚いたのが廃棄食糧の量。あまりの膨大さにがく然としました。日本の外食業界においてフードロスは深刻な状況だと実感しました。
同時に飲食業界の働き方にも強い関心があります。スロベニアでもイタリアでも週休2日は当たり前。北欧は週休3日が基本です。それでも収入は満足できるレベルで、星を獲得している店もある。これも日本の飲食業界が真剣に取り組まなければいけない課題だと考えています。
フードロスにしても働き方にしても、日本の状況があまりに深刻なので「変えられるのか!? この未来!」と思わずにはいられません。でも、だからこそ人生をかける価値があると思っています。
メニューもサービスもすべて英語の店を日本に
――今後の活動と目標を教えてください。
2025年はイギリスのレストランで働く予定で、その後はデンマーク滞在も模索しています。ほかにも行きたい店があるので、帰国は早くても2025年秋以降。将来的には日本で自分の店を持ちたい。まだ実現するかどうかわかりませんが、キッチンもホールも、メニューもサービスもすべて英語で行う店を作りたいのです。
海外には日本で働きたい料理人が多くいますが、ネックになっているのが言葉の壁。これを越えれば、世界中から料理人が集まってくるはずです。「Hiša Franko」ではさまざまな国の人と働きましたが、そうした多国籍の環境が生み出すパワーはすごい。日本でそんな店を作れれば、お客様を世界中から呼ぶこともできるし、さまざまな課題解決にもつながるのでないかと思っています。
■ ORGANIZERS 主催:RED U-35実行委員会 株式会社ぐるなび
■ CO-ORGANIZER 共催:株式会社エービーエフキャピタル
■ SUPPORTERS:emCAMPUS FOOD 株式会社ニッスイ 日本航空株式会社 株式会社アリラ ヤマサ醤油株式会社 ロケーションリサーチ株式会社 株式会社Traders Market
■ CHEF SUPPORTERS:株式会社日本食品総合研究所(NSK) BAROOM
「RED U-35」ホームページ