応援団のようなお客様づくりを目指して“笑って話せる距離感”を大事にしました
名古屋の立ち飲み業態でナンバーワンを目指している光フードサービス株式会社。「立ち飲み不毛の地」と呼ばれる名古屋で挑戦をはじめ、すでに5業態9店舗の繁盛店を展開している。その仕掛人が、代表取締役の大谷光徳氏。若くして新たなビジネスモデルを作り上げた彼に、成功の秘訣をうかがった。
――飲食業界へは、どんなきっかけで入られたのですか?
若い時は「とにかくお金を稼ぎたい」と思っていました。19歳の頃、飲食業界はまさにピークの時期。市場規模が30兆円に届くかどうかという状態で、地元の飲食店はどこでも求人募集をしていて、慢性的な人手不足でした。この業界は労働集約型の産業なので、働けば働くほど収入が増えるのが魅力で、ただがむしゃらに働きましたね。最初に正社員として就職したのは、名古屋市内のインド料理店。そこが結構繁盛しまして、1年経った頃には、焼肉店を経営する会社から店長としてスカウトされました。
――その焼肉店での経験が、今の大谷さんに大きな影響を与えたようですね。
本社が京都にある、歴史のある焼肉店だったのですが、肉の勉強だけでなく、店舗運営やマネジメント、求人、人材育成など、様々なことを学ばせてもらいました。特に、生産者の人たちとの付き合いができたことが大きかったですね。店では、ホルモンに国産の牛や豚を使用していたのですが、生産者のところに行って部位の勉強をしたり、と殺場の中まで入らせてもらったり、時には競りにまで参加するなどして、いろいろ教わりました。生産者を大切にし、直接、仕入先に出向いて食材の勉強をすることの大切さは、この時期に学んだものです。
また、20歳のときから店長としてマネジメントを任せてもらったのですが、そこで一番力を入れたのは、販促でした。当時は、まだ販促にお金をかける発想があまりなかったのですが、「これからはインターネットが来るから!」とスタートしたばかりのぐるなびを活用するよう、上司を説得したりしましたね。Web販促の効果もあって、勤めていた名古屋駅前の店は、宴会を多数獲得して快進撃を続け、毎日予約で満席でした。店長に就任した当初は、月商400万円くらいだったのですが、7年後に退社する頃には、1200万円くらいまで大きく伸びて、40カ月連続で前年同月比を超えました。そのあたりが評価されて、23歳という若さで、会社の役員にもなりました。
――それほど成功していたにもかかわらず、なぜ独立されたのですか?
若かったので野心もありましたし、焼肉店で働いているときから「事業を拡大したい」という気持ちが強かった。それを実現するために「自分でやろう!」と考え、独立しました。
その際、業態はホルモンに特化しようと考えました。ホルモンはきっちりと洗って、ていねいに下ごしらえすると、めちゃくちゃおいしい。しかも、生産者のところまで行くと、信じられない価格で、良質のホルモンを手に入れることができる。歴史のある焼肉店で役員もやらせてもらっていたおかげで、そういった肉を仕入れられるルートがすでにできていました。「大谷さんにだったら、分けてあげるよ」という信頼関係を築けていたのも、独立する決意を後押ししてくれましたね。
――1号店の出店にあたり、立ち飲み業態にしたのはどうしてですか?
当時、名古屋にはほとんど立ち飲みの店がなかったので、周りからはけっこう反対されましたね。「名古屋で立ち飲み? 無理だよ」って。でも、私はスタッフとお客様が近い距離で話せる“距離感”を大事にしたかった。お客様の顔を見ながら話して、笑える距離が重要だと考え、2008年に1号店となる立ち飲みの「串焼き 肉料理 大黒」をオープンしました。
最初こそ苦労しましたが、半年後には軌道に乗り、毎月、きっちり営業利益が出るようになりました。商品力はもちろんですが、成功の最大の要因は接客にあると思っています。お客様のメインは、私たちの父親世代のサラリーマン。串焼きが1本90円から食べられ、店も入りやすい。でも、なぜリピートしてもらえたかといえば、お客様から見たら自分の子どもぐらいの年齢のスタッフたちが一生懸命働きながら、商品のよさや生産者の想いを伝えようと、しっかりコミュニケーションをとっていたからだと思います。「店の応援団をつくろう」という目標を立てて頑張った結果、お客様が「今日は元気をもらったよ、ありがとう」と言ってくれたり、差し入れや誕生日プレゼントを買ってきてくれたりもしました。
――その後、順調に店舗数を増やして現在、9店舗を経営されていますね。
1号店の1年後には、「立呑み焼きとん大黒 金山店」「立呑み焼きとん大黒 名駅西口店」をオープン。その後も続けて「大黒」を展開しましたが、2011年に新業態に取り組みました。それが「立呑み魚椿」です。
海鮮系の酒屋を出店するきっかけは、物件が既存の「大黒」の隣だったため、自社競合を起こさないようにという理由からでした。この業態開発には、創業当時に掲げた「100店舗出店」の夢に賛同してくれた相棒(現・取締役)が尽力してくれました。私は、「揚げたての魚の天ぷらを出す、魚に特化した立ち飲み」というコンセプトを作っただけで、彼が寿司屋で半年ほど修業して魚介の調理法を学び、仕入れのルートも開拓してくれました。
その次に出したのが、「八千代黒牛専門 椎名牧場」。ここは、肉好きの私が原点に立ち返ろうと考えた店です。赤身の肉に特化して、希少部位も含めて60種類をショーケースにズラリと並べました。お客様が選んだ部位を2切れずつ提供して、立ち飲みカウンターに置いた七輪で焼いて食べてもらうスタイルです。店名にもなった千葉県八千代の椎名牧場から牛を一頭買いして、リーズナブルな価格を実現しました。その後に出店した「鮮魚と鶏の藁焼 藁WARA」では、高知の郷土料理、藁焼きをメインに据えました。
そして、今年9月にオープンしたのが「アメリカン肉バル DAIKOKU JUNK MEAT」。高カロリー、高タンパクが売りのアメリカンスタイルの「肉バル」で、1階は立ち飲みカウンター、2~3階はテーブル席です。
――今後の展開については、どのようなプランをお持ちでしょうか?
思えば、「魚椿」を出したことが転機でした。最初は「大黒」だけで100店舗を考えていましたが、名古屋の市場規模では、どうしてもエリアがかぶってしまい、自社競合を起こしてしまいます。そこで、業態を増やしました。業態は現在の5つくらいで、1業態につき4~5店舗を出店すると、約20店舗になります。そうすると、ひとつのエリアでドミナント戦略が組めます。この戦略で関東・関西へも進出して、100店舗を出店するイメージです。これなら、無理なく100店舗を達成できると思っています。もちろん、長いスパンで考えれば、時流に合わせて業態を変えることも必要ですので、常に感性を磨いておくことが重要です。あとは、100店舗の夢を共有できる同志をひとりでも多く育てることが、私の役目だと思っています。
http://r.gnavi.co.jp/n824300/
Company Data
会社名
光フードサービス株式会社
所在地
愛知県名古屋市中区栄1丁目6-7 ラスター伏見4F
Company History
2008年 「串焼き 肉料理 大黒」オープン
2009年 「立呑み焼きとん大黒 金山店」、「焼きとん大黒 名駅西口店」オープン
2010年 「焼とん大黒 名古屋駅前店」オープン
2011年 「立呑み 焼きとん大黒 笹島店」、「立呑み 魚椿」オープン
2012年 「八千代黒牛専門 椎名牧場」オープン
2013年 「鮮魚と鶏の藁焼 藁 WARA」、「アメリカン肉バル DAIKOKU JUNK MEAT」オープン
現在、計9店舗を運営