2014/05/09 挑戦者たち

株式会社ユウ・フード・サービス 代表取締役 谷 祐一郎氏

焼鳥店の店主から直営26店舗を手がけるまでに成長。飲食業界は楽しくてたまらない天職と言いきる。周到な準備と経営者として重ねた経験を糧に、今後は仕入れの強みを活かしたFC展開で新たな目標に挑む。

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大事なのは経験と時代の流れを読む力。適切なタイミングでアイデアを形にします

小さな焼鳥店の店主から直営26店舗を手がけるまでに成長した、株式会社ユウ・フード・サービスの谷 祐一郎氏。高校1年生の時にアルバイトをきっかけに入った飲食業界は、楽しくてたまらない天職とまで言いきる。周到な準備と経営者として重ねた経験を糧に、今後は仕入れの強みを活かしたFC展開で、新たな目標に挑む。

――10代のときに、早くも自分の店を持つ決意を固めたそうですね。

高校1年生の時に飲食のアルバイトを始めて、接客や調理の楽しさを知りました。どこにでもいる普通の高校生だったので、みんなと同じように大学へ進学したのですが、入学金を払う時になって父親の会社が倒産。学費を自分で用意しなければならなくなったんです。ずっと貯金はしていたので、当座のお金はありましたが、2年目以降の学費はアルバイトですべてまかなわなければならい。当然、授業にもほとんど出られず、稼いだお金を、行きもしない大学の学費にあてるのが、どうにも嫌でした。だったら大学を今すぐ辞めて自分の店を持とう、そのために働こうと思ったんです。退学すると同時に、覚悟が決まりました。

――独立までの3年半は、凄まじいアルバイト生活を送られたとか。

まったく社会人経験がなく、大学生という立場も一回生で捨てた僕には、懸命に働くという選択肢しかありませんでした。自分の店を持つために大学を辞めると周囲にも宣言していたので、料理を勉強しながらとにかくお金を貯めて、一日でも早く独立したかった。

アルバイトは3つかけ持ちして朝9時から翌朝5時まで。買い物もほとんどせず、支出といえば月に一度、将来の勉強のためにと、友人と大阪の焼鳥店をリサーチがてら食べ歩くくらい。そんな生活を続けたら、月20万円のペースで貯金ができ、独立前には600万円用意することができました。

アルバイト先の割烹料理店では、調理技術を磨きました。休憩時間も取らずにひたすら料理をしていたら、先輩に目をかけてもらい、いろんな持ち場を経験させてもらえました。独立する頃には煮物や八寸はもちろん、寿司まで握れるようになっていたんですよ。

1975年、大阪府八尾市出身。大学中退後、飲食店のアルバイトなどを経て、23歳のときに「鶏鳥kitchen ゆう 布施本店」をオープン。2年後に2号店を梅田に出店し、開業から15年で直営26店舗、プロデュース27店舗にまで拡大。独立支援制度も導入している。

――最初の出店を、(東大阪市の)布施駅前に決めたのはなぜですか?

僕の友人たちが行きやすい場所が布施だったというだけで、立地調査などは一切していませんでした。そこは風俗街の一角にある15年空き家状態の物件で、広さは10坪しかありません。近隣の人は、こんなところで店をやっても絶対うまくいかないと言いました。

この物件に決めたのは、開業資金が貯金と国民金融公庫から借りた金額を合せて1200万円しかなかったから。広い物件は借りられないので、最初から10坪程度を探しました。それが、「鶏鳥kitchen ゆう 布施本店」です。開店当初は、友人やそのまた友人というふうに、口コミで広まっていきましたが、深夜3時まで営業していたので、そのうち近隣の飲食店で働く人たちも来てくれるようになり、人気になりました。その状況を見て、さらに朝5時まで営業時間を延長したんです。

――2年後に2号店を出店したのを皮切りに、店舗数が拡大していきます。

2号店は梅田で、こちらも10坪程度の店でした。当時、梅田はすごく勢いがあり、開店初日から満席で、シャッターを開けると毎日人が押し寄せてくる感じ。オープンと同時に火が付くのは、1号店とまったく違う状況で、立地がいかに大切かを思い知らされました。多いときで布施本店の倍の純利益を出すほど順調で、若かった僕は気をよくして、その1年後に勢いで心斎橋に3号店を出店します。ところが、街の外れという立地の悪さも影響して、開店から3カ月は赤字。これはマズイと思い、焼鳥は焼鳥でも、まだどの店もやっていない食べ放題を実施。この戦略が当たり、黒字に転換できました。以後、4号店からは年に3店舗ほどのペースでオープンしていきました。

――業態も多様化し、店舗プロデュースもするようになりましたね。

2006年頃からは、それまでの焼鳥店から、より幅広い客層を呼べる居酒屋業態を多く出店しました。メニュー開発は、社員の家族でホテルの総料理長だった方にお願いしたのですが、一流シェフから料理を教えてもらえることで、スタッフのモチベーションも上がりました。その後、さらに和食の料理人も加わり、2012年には酒と魚の店「日本酒とお魚きっちん 祐星 新町店」がオープンしました。

店舗プロデュースは、始めてから8年ほどになりますが、これは初めて飲食店を開くオーナーさんに、開業から運営までのノウハウを伝えるのが仕事です。プロデュースのおもしろさは、自己資金ではなかなか手を出しづらいような立地などで、様々なアイデアを試すことができ、何より経験を積めることですね。例えば、直営店なら年に3店舗程度しか新しい考えを試せないのですが、資金や人材の確保が不要なプロデュースなら、その倍の数でも可能です。いつでもどこでも飲食店のことばかりを考えて、スマートフォンのノート機能にアイデアをいっぱいメモしているような僕にとっては、これほどやりがいのある仕事はないですね。

――会社として、独立支援制度を導入されたきっかけは何でしょうか。

飲食店の場合、ある程度の経験を積むと、辞めて独立していく人が多い。やっぱり自分の店を持ちたいですからね。ですが、僕としては、せっかく一緒にやってきたのだから、できれば残ってほしい。だけど、独立という夢も叶えてあげたい。そこで考えたのが、独立支援制度です。まず2年後の譲渡を目標に、新店舗の店長になってもらいます。2年が経ち、いろいろ学びながら経営を軌道に乗せたら、予定通り店を譲渡。同時に、この店のためだけに設立した子会社の社長に就任します。社長となる者は、子会社の株も買い取り、これで名実ともに店のオーナーになるわけです。食材の仕入れや運営に関しては、親会社であるユウ・フード・サービスが面倒をみますから、リスクも小さい。この形で2号店の店長が独立して以降、これまでに計8人が子会社の社長として独立しました。

15年前の創業時、「鶏鳥Kitchen ゆう 布施本店」前にて。わずか10坪のこの店から、「飲食業は天職」と語る谷氏の快進撃が始まった

――15年間順調に業績を伸ばしてきた理由と、今後の展望を教えてください。

大きな挫折がなかったのは、性格によるところが大きいですね。事を始めるにあたって、場当たり的な行動は一切しません。立地、物件の大切さを知ってからは、準備はしっかりします。でも、だからといって、慎重になりすぎては、時間だけが過ぎて経験が積めません。大切なのはそのバランスと、時代を読む力。新店舗をオープンする際には、タイミングを見計らい、温めてきたアイデアを市場に投下します。

今後は、「鶏家 六角鶏」のFC展開に力を入れていきたいと思っています。この店は、名古屋コーチンや秋田比内地鶏など、一度は食べてみたい全国の地鶏を、リーズナブルな価格で食べ比べできることが売りなのですが、メニュー化できたのは仕入れルートをコツコツ築いてきたから。このブランドを全国規模で展開して、5年後までに100店舗を目指します。

炭焼きっちん 祐星 なんば店(大阪・難波)
http://r.gnavi.co.jp/k323411/
地下鉄なんば駅から歩いてすぐの好立地にある創作居酒屋。熊本直送の馬肉をはじめ、特選和牛、旬魚を使った質の高い料理が人気を呼んでいる。
鶏家 六角鶏 なんば店(大阪・難波)
http://r.gnavi.co.jp/c398200/
秋田比内鶏、丹波高坂鶏、福岡八女炭蘇鶏、宮崎黒岩土鶏などの地鶏を全国から集め、リーズナブルに提供。ビジネス層の宴会などに人気の店。

Company Data

会社名
株式会社ユウ・フード・サービス

所在地
大阪市天王寺区上汐4-5-16 ツチヤビル1F

Company History

1999年 「鶏鳥Kitchen ゆう 布施本店」オープン
2001年 株式会社ユウ・フード・サービス設立
2005年 セントラルキッチン開設
2008年 初の東京進出となる「鶏豚きっちん池袋東口店」オープン
2010年 「炭火焼鳥と旨豚 まこ家」オープン
2011年 あべのキューズタウン店として、「つけ麺きゅうじ」「鶏魚Kitchen ゆう」「鶏豚きっちん」が3店同時オープン
2013年 「鶏家 六角鶏 なんば店」オープン

※本記事の情報は記事作成時点のものであり、情報の正確性を保証するものではございません。最新の情報はご自身でご確認ください。

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