大切なのは、店の存在意義。今後の方向性が見えてきました
起業意欲は高かったが、飲食業界についてはまったく考えていなかったという株式会社サードプレイス・代表取締役の岡山浩之氏。幾度かの挫折を乗り越えた今、「ようやく自分のやりたい店が見えてきた」と語る。飲食業界に飛び込んで12年。海外も含めて7店舗を展開する岡山氏に、これまでの歩みと、新事業、飲食業への想いを聞いた。
――大手出版社から飲食業へ転身。起業の経緯を教えてください。
もともと起業したいという想いはあったのですが、飲食業はまったく考えていませんでした。1990年代後半で、時代はIT。漠然とIT関係で起業できたらと思っていました。中学、高校と野球に打ち込んで甲子園を目指し、大学では早慶戦にも出場。プロ野球選手になろうと考えたこともあり、大きな夢や目標を持つということを身近に感じていました。それが起業意欲につながったのかもしれません。
大学卒業後に入社した出版社では雑誌の流通・販売を担当したのですが、雑誌の販売部数が年々減るのを目の当たりにし、“時代が求めるもの”に携わっているという実感が乏しく、3年半で退社。そして、友人と惣菜店で起業しました。ただ、やはり友人とは仕事のパートナーではなく、友人のままでいたいと思い、1年3カ月でこの会社を離れることにしました。
その後はフリーターをしながら、再び起業するための種を探していましたが、2004年8月、父親が経営する給食事業の会社が倒産の危機と突然知らされ、事態は一変しました。猶予は数日という切迫した状況で、とにかく金策に走り、父の会社が1軒だけ持っていた居酒屋を買い取ることで、倒産を免れました。29歳のときです。
その店が東京・江戸川橋の「そば居酒屋 悠遊」で、現在の「築地 魚一」です。惣菜店のときに飲食の仕事は大変だと実感していたので、飲食業での起業は避けたかったのですが、そんなことは言っていられない状況でした。ちょうどアテネ五輪の女子マラソンで、野口みずきさんが金メダルを取った頃。その映像を見ると、当時の複雑な感情を、今でも思い出しますね。
――どのような経営戦略を持って、会社を運営してきたのでしょうか?
引き継いだ当初の 「悠遊」は、素人目にも接客の水準が低く、そこをきちんと改善すれば、売上は上がると思いました。その通り、3カ月で前年同月の売上を超えるように。これで調子に乗り、2年後に2号店を出したのですが、大赤字。さらに、その不振の穴を埋めようと3店目を出し、これも失敗。両店とも閉めることになりました。思い返すと若気の至りです。売上が減ったことを出店で補うなんて禁じ手なのに、見事に陥ってしまいました。
それからは、最初の「悠遊」1店舗に絞り、財務のリハビリを行いました。その過程で、売上が頭打ちになっていた「悠遊」を再生しようと、「魚一」としてリニューアル。シメで食べることが多いそばより、魚を前面に打ち出したのです。築地から仕入れる質の高い鮮魚をリーズナブルに提供したところ、近隣に住むアッパー層の来店が増え、売上も上がりました。東日本大震災の数週間前のリニューアルでしたが、震災後も客足は衰えず、その後も順調に伸びています。
同時に取り組んだのが、経費を見直して利益率を上げること。それまでは、売上が伸びれば利益はついてくると信じていたので、人件費の抑制など考えたこともなかったのです。でも、適切な人員配置で運営を効率化したら、売上を伸ばしつつ経費の削減もでき、利益率アップに成功しました。その結果、社会保険を整備し、社員の待遇も改善できました。もともと1、2店舗で終わるつもりはなかったので、社内の整備は避けて通れない課題でした。
その後の数年間は、会社を大きくしたいという気持ちが強く、店舗展開に取り組みました。創業店は住宅街立地で全45席ですが、同じような立地・規模の店だけでなく、大箱やオフィス街にも挑戦しました。様々なことを経験して、今、ようやく理想とする“自分の店”のビジョンが見えてきたと思います。失敗も成功も経験しましたが、すべて必要なことだったと感じています。
――“自分の店”のビジョンとは具体的にどんなお店でしょう?
ひと言で言えば「地場密着の顔の見える店」です。現代の都市生活者には、家庭という「ファーストプレイス」、職場という「セカンドプレイス」のほか、そのどちらでもなく、一個人としてくつろげる「サードプレイス」が必要。そのサードプレイスになろうというのが、社名に込めた創業の原点です。
この“くつろげる店”とは、僕の考えでは、大きな繁華街ではなく都心に近い住宅地にある、35~60席くらいの30坪ほどの店。お客様とスタッフがお互いの顔を知っていて、「大将、また来たよ」と言うと、注文をしなくても好きな酒や料理が出てくる。つまり、「スタッフに客がつく店」です。
僕はコンセプトメーカーでも、トレンドクリエイターでもありません。だから、作る店は普遍的な料理を核とし、若干のトレンドを取り入れつつ、地元の人たちに長く愛され、地域経済に貢献する店でありたい。そこに、自分の店の存在意義があると信じています。
存在意義という点では、2014年にスリランカに出店したことも、強い刺激になりました。人の縁で実現した出店なのですが、スリランカへの日系外食企業の進出は、おそらく当社が初めて。東南アジアには大手の外食チェーンが軒並み進出していますが、スリランカをはじめ、南アジアはまだほぼ手つかずの状態です。ここに日本の外食企業が出店する意義は大きい。しかも世界的に見れば、南アジアには経済的ポテンシャルが十分ありますから、経営者としては血がたぎるというか、大いなるロマンを感じるところです。
――社内独立や新事業にも着手しています。今後の展開を教えてください。
今、あらためて思うのは、飲食企業の価値は店舗の数ではないということ。「地場密着の顔が見える店」は、個人店が向いていますから、今後は社内独立に力を入れ、経営者を育てたいと考えています。
今年3月に1人の独立が決まっていますが、彼らにも経営者として夢やロマンを持ってほしい。人材を育て、彼らの夢を支援する仕組みや体制を整えることが、これからの仕事の1つだと思うようになりました。
また、南アジアでの事業はこれからが本番です。スリランカの店はようやく利益が出始めたところですし、インドからのオファーもあります。日本からの出店は現地の期待度がすごく高いので、やりがいは大きいですね。
もう1つ、3月から大学で野球部の寮の食堂事業を始めます。アスリートのための食、なかでも野球選手に特化した食は、新しいジャンルです。アスリートにとって食はとても重要なのに、とりわけ学生は無頓着で、ジャンクフードでお腹を満たすことも珍しくありません。体を作るための食事と、試合で力を発揮するための食事は違いますが、そういった考えはまだまだ浸透していませんし、実際の食事もまったく追いついていません。そこで、スポーツ栄養学の専門家などとともに、食事指導も担える食堂を作りたい。これは飲食業の新しい価値になると思うので、今からとても楽しみす。
飲食業を始めて12年。この業界における自分の仕事の意義を、ようやく整理できてきたと感じています。
http://r.gnavi.co.jp/7xz80pzj0000/
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Company Data
会社名
株式会社 サードプレイス
所在地
東京都文京区関口1-13-14 向井ビル1F
Company History
2004年 父が経営していた「そば居酒屋 悠遊」を引き継ぎ、飲食業界に進出
2006年 株式会社サードプレイスを設立
2010年 「悠遊」を「築地 魚一」にリニューアル
2012年 「築地 魚一」ブランドで店舗展開を開始
2014年 「Tsukiji Uoichi Colombo」をスリランカに、「築地場外食堂 うをいち」を神奈川・相模原市にオープン
2015年 初の洋食業態「ペッシェウーノ・フレスコ」を東京・江戸川橋にオープン