2020/01/23 特集

RED U-35 2019準グランプリシェフ対談企画 成田陽平氏×野田達也氏(2ページ目)

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それぞれの活躍が次のステップへの刺激に

――それぞれの道を歩いていたお二人ですが、思いがけずRED U-35で再会します。

成田
 フランスから帰国した2013年に第1回のRED U-35が開かれました。このときの準グランプリが、フランスで知り合った友人の安發(あわ)伸太郎さん。私は安發さんから調理助手を頼まれて審査会場におり、同い歳の安發さんの受賞に衝撃を受けました。2015年のRED U-35は「菊乃井」の先輩が出場し、また助手を務めたのですが、厳しい審査を目の当たりにし、自分をしっかりと持っていないと戦えない舞台だと痛感したのを覚えています。このとき準グランプリを獲得したのが野田さんでした。自分より後に料理を始めた彼が、もうここまで来ていることに大いに刺激を受け、翌年応募するきっかけになりました。自分はまだ力不足だけれど、チャレンジしたいと強く思わせてくれたのが、野田さんだったのです。

野田 2016年にRED U-35が開催したワークショップで成田さんと再会しました。最初の出会い以来でしたね。確か「ファイナルで会いましょう!」とエールを送った記憶があります。ところが、私は三次審査で落ちてファイナルに残れず、今度は成田さんが準グランプリに輝きました。

成田 私は、このとき準グランプリをいただいたことによって、日本料理の道を歩んでいく決意が固まったのです。応募の段階では迷いが残っていたのですが、審査を通じて自分と向き合えたこと、受賞をきっかけに多くの人に助言をもらったことが大きかったですね。RED U-35に出会えたことは幸運だったと思っています。

野田 私にとってもRED U-35は、間違いなく1つの分岐点になりました。最初に準グランプリをいただいた2015年では、同じファイナリストとなったシェフたちと強い絆ができ、料理人人生の中で何度も励まされました。ですが、2016年に出場したときに三次審査で審査員から将来のことを聞かれ、すでにケータリングなどに可能性を見出していたにもかかわらず、将来の道筋を明確に伝えることができずに落選。自分のビジョンが輪郭しか描けていないことに愕然とし、以後、自分の言葉で将来像を語り、説得力のある実績を積むことを自分に課しました。それが達成できてから、もう一度挑戦しよう、そして絶対に優勝すると誓いました。

野田氏の三次審査の料理「恵みと実り」。危機が叫ばれる海洋資源を日本人になじみ深い「米」に置き換え、テーマ食材の「鯖」とともに表現。未来を見つめ直すきっかけとなる一皿に仕上げた
最終審査は自由にプレゼンテーション。野田氏は、料理人としての歩みや料理への思いを述べ、「料理人の新たな働き方や選択肢を地方から発信したい」と語った

――それが、2019年のRED U-35ですね。今回はグランプリ該当者なし、お二人が準グランプリになりました。この結果をどう受け止めましたか?

成田
 2016年に出場してわかったことは、RED U-35は誰かと戦う場ではなく、自分をどれだけ掘り下げられるかが問われる場だということ。自分と向き合い、何がしたいのか、どんな料理人になりたいのか、そのために今の自分にどんなアクションができるのか―。それに挑戦できるのがRED U-35です。もちろん、2年ぶりに応募した今回は、優勝しか見ていませんでした。でも、成績よりもう一度挑戦したい、自分を追い込んでみたいという気持ちが勝っていました。

野田 私も今回が最後のチャンスと思って臨んだので、準グランプリで悔しい気持ちは強いです。ファイナルに成田さんとともに残ったことも、大いに励みになり、ライバルという気持ちもありましたが、今回は2016年の大会でできなかったことをすべてやり遂げる覚悟で臨んだので、何よりも自分自身との戦いでした。前回出場してからの2年間、貴重な経験をたくさん積み、将来のビジョンもプロセスも明確に描け、実現できるという自信もありました。審査ではそれを表現できたという手応えはあります。もちろん、伝えきれないところがあったからこその「準グランプリ」なので、それは受け止めています。

成田 「グランプリ該当者なしの準グランプリ」という結果に、初めは戸惑いましたが、今はこれでよかったと思っています。自分をしっかり見つめ、自分自身に対して恥ずかしくない戦いができましたが、日本を代表する料理人として、料理界全体を背負う覚悟があるかと問われれば、そこまで至っていなかった。グランプリの器には足りなかったのだと。ただ、野田さんと同じファイナルの舞台に立てたことは、素直にうれしいです。料理人はほかの料理人を意識することが成長の糧になると考えているので、自分にとってRED U-35は大きな存在です。

成田氏の三次審査の料理「寒露のころ 秋鯖 米」。ガンが群れをなし、菊が咲き誇る日本の晩秋の風景を、稲わらで軽く燻したしめ鯖、新米、菊の花などで表現。秋の実りに感謝を込めた一品
最終審査でプレゼンテーションに臨む成田氏。故郷での食体験、フランスにいたからこそ気づいた日本料理の素晴らしさを語り、「日本の食文化を伝えていきたい」と決意を述べた

それぞれの故郷を拠点に、世界に向かう未来を描く

――お二人とも将来は故郷で料理人として活動したいとおっしゃっています。

野田
 2019年夏に、2年間勤めた和牛をメインに扱うパリのレストランを辞めて帰国し、今は東京で活動していますが、2年後には故郷・福岡を拠点にして、国内外の様々な人や場所とつながる活動を展開しようと考えています。今は準備期間として、レストランやケータリングで料理を提供することはもちろん、キッチンカーなどにも幅を広げているところです。料理自体はフレンチが基礎になっていますが、カテゴリーに捉われなくてもいいと思っています。パリにいるときは、日本の食材を使うと、フランス人は「これは和食だ」と喜んでくれ、逆に同じ料理を日本人はフランス料理として歓迎してくれました。大事なのは、和食でもフレンチでも、食べる人がより幸せに感じること。呼び方はどちらでもいいのです。

成田 同感です。私も食べる人の受け取り方に委ねることが大切だと思います。料理をする側の自由度は変わらないので。ただ、自分は日本人なので、日本料理を謳うほうが日本に役立てるような気がします。日本の食材や日本料理の価値を、より伝えやすいと。いずれ故郷の青森で店を持ち、青森を拠点に日本の食文化を世界に発信したいと考えています。

――今後、どんな料理人を目指していきますか?

野田
 人を笑顔にする料理人です。料理だけでなく、誰とでも対等に話ができる知識を持つことも、これからの料理人には大切だとも思っています。

成田 人の生活や自然環境、自分にも無理のない生き方を貫き、自分の料理で人を幸せにできる料理人になりたいと強く願っています。

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