※スマイラー106号(2024年11月)より転載
4回の徴兵を生き残った男
「祖父は、まさに波乱万丈の人生を生きた人です。まだ第二次世界大戦が始まる前、満州事変後から日中戦争にかけての時期、3回も徴兵されたんです。最初の徴兵では、生きて帰ることができるかもわかりませんから、独立して商売を広げていた米屋を売って、そのお金を母親に渡して戦地に向かいます。幸い、生きて戻ることができましたが、商売はまたゼロからのスタートです。それが、その後2回も起こったわけです。さらに、第二次世界大戦が始まり、戦況が厳しくなると、米は統制品になり、個人で商売することができなくなります。そこで統制品から除外されていた川魚の商売を始め、なんとか軌道に乗りはじめたところで4回目の赤紙が届きます。戦地から帰国したのは終戦後。東京は焼け野原になっていました」(我孫子氏)。
根本氏は、帰国後、再び川魚の商売を始める。露店や行商でコツコツと稼ぎ、浅草千束町にバラックの店を立てた。「鮒忠」の誕生だ。何度もの危機的な状況を乗り越え、ゼロからのスタートを繰り返して、ようやく小さいが確かな商売の牙城を築いたのだ。この忍耐力と向上心は驚異的だ。どんな状況でもあきらめずに前向きに行動し続けた結果だろう。しかし、肝心の焼き鳥はまだ登場しない。鮒忠は、ウナギやドジョウなどの川魚を扱う店だった。焼き鳥を販売するようになった経緯はどうだったのだろうか。
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「焼き鳥」の誕生
「川魚は、冬になると捕れなくなります。それで冬場をしのぐ商売として始めたのが『焼き鳥』でした。当時、鶏肉は高価でしたので、庶民が食べていた焼き鳥は鶏でなく、野鳥の肉や内臓などを使ったものでした。ですから、鶏肉を串に刺して10円で売り出したのですが、評判になって飛ぶように売れたそうです。ウナギと鶏という鮒忠の2枚看板は、この時から始まりました」。
戦前までは、鶏肉は牛肉よりも高級品だった。現在のように手頃な値段になったのは、日本にブロイラーが導入されてから。当時は、アメリカが駐留軍の食事のためにブロイラーを日本に持ち込んだことで、安い鶏肉が少しずつ市場に出始めたまさに最初の時期だった。
焼き鳥は、その後、大衆向け料理として日本中を席巻していく。多くの焼き鳥店が誕生し、酒場の定番メニューになっていく。焼き鳥人気のおかげで、「鮒忠」は、バラックの店から二階建てに変わり、1階を販売店、2階を飲食店にした。飲食店を始めたことで、「鮒忠」の売上は飛躍的に伸びたそうだ。この飲食店では、根本氏が考案したもう一つの鶏料理「鶏の丸むし焼き」も大ヒットした。
そして、「食鶏の父」へ
そして「鮒忠」は、さらなる進化を遂げる。鶏肉の卸売業を始めたのだ。「焼き鳥が大人気になって、鶏肉が足りなくなってきたので、商社と一緒に当時黎明期だった産地をめぐり、処理工場を含め食鳥産業に参入し、卸売業を始めることになりました」。
根本氏は、米屋で丁稚奉公をしていた時に、独立の難しさを実感していたこともあって、早い段階で「のれん分け」のシステムを作って、従業員の独立を支援していた。「鮒忠」が居酒屋チェーンの走りといわれるゆえんだ。その後、アメリカのFC理論をいち早く取り入れて、フランチャイズ展開を本格的に進めていくことにもなる。
一時はFC店だけで100店舗、のれん分けや直営店と合わせると200店舗を超えた。その他、「鮒忠」で修業した後、違う名前で独立した人も多く、そうした店も数えると「鮒忠」関連店は400店舗を越えていたのではないかと安孫子副社長は言う。もちろん、そうした店にも食材を卸した。卸売業は次第に大きなビジネスに成長していった。昭和50年には、関東の三大荷受として日本全体の鶏肉卸市場で業界トップの占有率10%だったというから驚異的だ。
「店舗数が増えて、卸売業が拡大していくと、鶏肉を大量に確保する必要性が出てきました。売るものがなくては商売はできませんから、私たちはブロイラーの生産にも関わるようになります。生産指導ですね。農家などにブロイラーの飼育方法を教えて、育ててくれたら買いますよ、とやるわけです。こうして日本のブロイラーの生産を拡大し、安定供給できるよう助力したのです。二代目社長で私の父である根本 修司は、黄綬褒章を賜ったのですが、その理由の一つに『養鶏農業の振興への寄与』も実績として評価されていたそうです」。
“焼き鳥の父”は「食鶏の父」でもあった。鶏の唐揚げや照り焼きなど、おいしい鶏料理が、居酒屋で安く食べられるのは根本 忠雄 氏と「鮒忠」のおかげなのかもしれない。
老舗の誇りを胸に秘めて
現在、「鮒忠」は大衆居酒屋ではなく、鶏と鰻の専門店として新たなフェーズに入った。
「これまでと同じように、今後もずっと大衆に寄り添う店でありたいと考えていますが、戦後と違い、大衆は豊かになり、社会は成熟しました。今は心も満たされる料理が求められています。そうした時代の変化に応えていくことは大切です。昔は甘いものが喜ばれましたが、今は甘すぎると逆に敬遠されることも多いです。量も多ければいいという時代じゃなくなりましたよね。昔と同じことをやっていては、時代に置いていかれます。今は、老舗としての誇りやプライドを胸に秘めつつ、手間をかけたスローフード的な料理を提供しようと方向性を少し変えています。高級料理ではありませんが、しっかりした料理を出そうと考えています。和食の技術や、食材の奥深さなど、世界に向けて日本の食文化を広めることも私たちが担うべき役割だと思います。私たちは創業79年目になりますので、飲食店(焼き鳥居酒屋)、鶏肉卸売業としても最も古い部類に属すると自負しています。そういった意味でも、規模の拡大ではなく、時間軸での存在意義に価値を置いて経営しています」。
「鮒忠」は、常に大衆の方を向いて、大衆が喜ぶことを目指すことで成長してきた。根本氏は、儲けは薄くてもたくさんの人に喜んでもらえることを優先したそうだ。コツコツと堅実な商売をしていたことが、高度経済成長の時代に後押しされたのだろうと安孫子副社長は言う。
「フランチャイズのお店の方で、祖父と共に働いた社員が祖父の書いた色紙を大切に持っていましてね、そこには『積み重ね』と書いてありました。この教えを守ってきたからこれまでやってこれた、と言っていました。その店は派手な繁盛店というわけではありませんでしたが、地元のお客様に深く愛されていました。「鮒忠」も同じだったのだろうと思います。目の前のお客様に喜んでほしいと考えて商売をしていたから、多くお客様に愛していただけたのだと思います」。
お客様に寄り添い、おいしいものをできるだけ安く提供しようという姿勢は、現代の居酒屋にも通じる。居酒屋の源流の一つが、確かにここにある。
住所:東京都台東区花川戸1-6-4
TEL:03-3844-4127
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