コロナ禍で再認識。「銀座ライオン」「YEBISU BAR」の存在意義は“WITH BEER”~株式会社サッポロライオン 代表取締役社長 三宅 祐一郎 氏~

学生時代のアルバイトからサッポロライオン一筋の三宅 祐一郎 氏。「点」「YEBISU BAR」などの新業態開発を担い、13代目の社長になった彼に、郊外への出店戦略やコロナ禍を経て生まれた新理念などについて聞いた。

URLコピー

目次
「名古屋ビール園 浩養園」でのアルバイトから社員へ
「銀座ライオン五丁目店」時代、最強のライバルは本店
自身が手掛けた「点」「YEBISU BAR」がヒット!
2018年に社長就任。コロナ禍での決断
新たに掲げた理念“JOY OF LIVING WITH BEER”とは
「リーダー×一問一答」&「COMPANY DATA」

コロナ禍を経て、これまで育んできたブランド価値に改めて気付かされました

 42年前、高校時代に浩養園(愛知・名古屋)でアルバイトを始めたのをきっかけに、株式会社サッポロライオンに入社した三宅 祐一郎氏。入社後は、ビヤホール全盛期に「ライオン 銀座五丁目店」で経験を積み、「プライベートダイニング 点(ともる)」や「YEBISU BAR」などの新業態をヒットに導いてきた。13代目の社長に就任したのは2018年3月。アルバイトからの生え抜き社員の代表就任は2人目だった。コロナ禍で、事業規模の縮小を余儀なくされたものの、2022年10月以降は業績は順調に回復している。その中で会社の存在意義を痛感し、「JOY OF LIVING WITH BEER(生きている喜びをビールとともに)」という新しい理念にたどり着いたという。

 激動の時代を経てトップに就任した三宅氏に、飲食人としての歩みや業態開発の極意、コロナ禍での取り組みから、新しい理念に込めた思い、今後のビジョンまで、幅広く話を聞いた。

――42年前、高校生のときのアルバイトが、サッポロライオンとの出会いだったそうですね。

 両親が居酒屋を経営していたので、お客様が飲食する姿は子どもの頃から見慣れた光景でした。高校2年生のときのアルバイト先として、たまたま申し込んだのが株式会社サッポロライオン経営の「名古屋ビール園 浩養園」だったんです。そこで半年間働き、1年半後、大学生になってから再びアルバイトとして働きました。もう一度働こうと思ったのは「以前働いたことのあるなじみの店だから」くらいの軽い気持ちでした。浩養園がサッポロライオンが運営している店だとも知りませんし、意識もしていませんでした。

 私が大学生の頃はまさにバブルが始まっていた頃。浩養園と系列店の「ライオン」、会員制の高級バーでも働き、3つのアルバイトを掛け持ちしたこともあり、一人暮らしの家賃から生活費、学費、遊ぶお金まで、すべて自分で稼ぎました。現在のようなリーズナブルなファッションブランドは、まだない時代ですから、数万円のジャケットを着込んで、繁華街やディスコに繰り出す、そんな大学生でした。

 そんな中、当時の浩養園の支配人が「うちに就職してみないか?」と言ってくれたのです。5年間働きアルバイトリーダーにもなっていましたから、「この経験が生かせるなら」と東京で入社試験を受け合格。1988年、無事社員になったというわけです。

1964年4月、愛知県生まれ。中京大学卒業。高校・大学時代に株式会社サッポロライオンが経営する浩養園(名古屋ビール園)でアルバイトを経験し、卒業後、同社に入社。「ライオン 銀座五丁目店」を皮切りに活躍し、「点(ともる)」「YEBISU BAR」など数々のヒット業態を送り出す。2018年3月、第13代社長に就任、現在に至る。

【飲食店の安定的な経営ノウハウはこちらをチェック!】
飲食店経営を成功させるポイント~不振の原因から解決策を解説!~

――最初の配属先「ライオン 銀座五丁目店」で、さまざまな経験を積んだそうですね。

 五丁目店は、本社ビル1階にある「ビヤホールライオン 銀座七丁目店」とは目と鼻の先。当時の五丁目店のテーマは「ライバルである七丁目店に売上で勝つこと」でした。

三宅氏が入社後に最初に配属された「ライオン 銀座五丁目店」。三宅氏が働いていた時期はビヤホール全盛期。当時打ち立てた、五丁目店の最高売上・最高利益は今でも破られていないという

 七丁目店は1934年創建の現存する日本最古のビヤホールで、巨大なモザイク壁画と高い天井の荘厳な内装を有し、2022年に国の登録有形文化財(建造物)にもなった唯一無二の空間です。

本店で、本社ビル1階にある「ビヤホールライオン 銀座七丁目店」。巨大なモザイク壁画を含む空間は唯一無二で、2022年に国の登録有形文化財(建造物)に登録された

 当時はビヤホールの全盛期。晴天の日は七丁目店には勝てませんが、雨天の日はいい勝負ができたのです。七丁目店は1階なので、入店待ちは屋外に列を作るのですが、雨が降ると外に並ぶお客様が減り、代わりに地下の五丁目店に来るからです。入り口が地階なので雨を避けられますし。今では考えられませんが、4名席の丸テーブルに補助椅子を入れて8名の団体席にしたり、2名様2組に相席をお願いするなどして席をフル稼働させ、売上を伸ばせる時代でした。私もジョッキを両手で一度に16個くらい持って運ぶなど、フルスロットルで働いていました。ここに5年半いたのですが、当時記録した五丁目店の最高売上・最高利益は今でも破られていないはずです。

――その後も、さまざまな店を渡り歩きながら、売上増や新業態開発を成功させています。

 その後、銀座を離れ、松戸(千葉)、また銀座に戻り、神楽坂(東京)、川崎(神奈川)などで、和食店や中国料理店などさまざまな業態を経験し、数字を上げることに成功しました。

 なかでも、32歳のときに初めて支配人として赴任した神楽坂のそば居酒屋では、対前年比で20カ月連続増を達成しました。このときに掲げたテーマが「通行人をお客様に変える」。朝晩2回、店の前を通るビジネスマンに店の存在に気付いてもらおうと考えたのです。

 そこで、看板の色を変え、のれんを昼と夜で掛け変えるとともに、午後5時にちょうちんをぶら下げました。料理のサンプルを1日3回陳列し直して、ケース内のクロスから、サンプルの入れ替え、ライティングまで徹底的に研究し、効果的なアピールを模索しました。「総席数130、最大宴会人数80人」というポスターを店頭に掲示したのもこの頃。間口の狭い店の規模感を一目で伝えることに成功し、近隣の企業や大学などから大人数の宴会予約が次々と舞い込みました。インターネットでの販促はまだ黎明期。いかに店の視認性・認知度を高めるかを試行錯誤しながら集客のサイクルを作っていきました。

 また、新業態の「プライベートダイニング 点(ともる)」の立ち上げも行いました。ここでの狙いは“銀座ライオンが取りこぼしている客層を獲得する”こと。ライオンのお客様は圧倒的に中年男性がメインでしたから、それとは一線を画す店づくりを意識しました。若者がおしゃれをして行ってみたい店、思い返せばバブル時代の華やかさや艶っぽさを意識した結果、生まれた店が「点」でした。狙い通り、20~30代の男女が合コンやデートで利用し、人気店に成長しました。

三宅氏が中心となって立ち上げた「プライベートダイニング 点」。若い年齢層をターゲットに、銀座ライオンが取りこぼしている客層を獲得することに成功した

 その後、2009年に銀座・コリドー街に1号店を出した「YEBISU BAR」も、ライオンとは違う客層を意識したブランドです。リーマンショックの影響で高級業態が軒並み苦戦するなか、「YEBISU BAR」はジョッキではなく350mlのグラスビールを500円で提供し、カジュアルに使えるイメージを前面に打ち出しました。そこに「ヱビスビール」の強いブランド力が加わり、大盛況となります。

 1号店の開店前に「ヱビスバー、始めます」と書いたポスターを貼り出したら、前を歩く人たちが「へえ~。ここにヱビスバーができるんだ」と言うんです。あたかも「YEBISU BAR」がすでにどこかに存在しているかのような話しぶり。このときは“ヱビス”というブランドの底力を実感しました。

同じく三宅氏が手掛けた「YEBISU BAR」。「ヱビスビール」のブランド力を存分に生かす店名と、350mlのグラスビールを500円で提供するなどカジュアルな価格設定で一気に人気店に成長

 こうした成功に理由があったとすれば、徹底した“繁盛店の研究”があるかもしれません。当時の私は、担当店舗の周辺に新店ができればすかさず視察に行き、エリアが違っても繁盛店の情報を聞けば飛んで行って、内装・外装、料理はもとよりスタッフの制服、接客などをつぶさに観察していました。客として入店するわけですが、食べていると時間もお金もかかるので、店内を一瞬だけ覗くなどして様子をうかがったりしていました。誰に教えられたわけでもなく、一人で繁盛の秘密を研究していました。

――数々のミッションを成功させ、2018年3月には社長に就任します。

 2011年に本社営業部のブランド戦略室長として「YEBISU BAR」を展開。その後、中部関西西日本地区事業部長、取締役執行役員、取締役常務執行役員を経て、2018年3月、代表取締役社長(第13代)に就任しました。前社長の任期満了に伴う昇格ですが、当社の生え抜き社長は私と11代目の2人だけ。ほかの11人はサッポロビール社の出身でしたから、自分が内示を受けるまで、次期社長が誰なのかは全くわかりませんでした。

 実は10代の頃、私は父親に連れられて、七丁目のビヤホールに来店したことがありました。そのとき何を食べたのかは覚えていませんが、正面の壁画と独特の空間は、記憶に刻まれました。だから、社長の話をいただいたときは、子どものころの記憶が重なり「やはり深い縁があったんだな」と感慨深くなりました。この歴史と伝統を守り、後世につなげる責任の重さを強く感じています。

 特に、コロナ禍に翻弄(ほんろう)された3年間は、テイクアウトニーズの上昇に合わせてメンチカツ専門店を出店したり、大箱店を閉業したり、希望退職制度を導入するなど「会社として生き延びるためにどうするか」という一点に集中しました。当社は私を含め、勤続年数が長い人が多い。外食産業の中では稀有の存在と言ってもいいでしょう。120年を生き延びてきた歴史もあります。それをここで失うわけにはいきません。店舗の閉店や希望退職制度の実施という苦しい決断を下したのは、そのためでした。

コロナ禍ではテイクアウトニーズの高まりを受けて、メンチカツ専門店「銀座メンチ こがね亭」を出店。希望退職制度を導入するなど試行錯誤を続けた数年間となった

――現在は順調に回復しています。今後の展望は?

 本格的な規制緩和が進んだ2022年10月以降、一度も計画を下回ることなく、好調をキープしています。外食やアルコールを制限されていた方が「ライオンのビールが飲みたかった!」「YEBISU BARに行きたかった」とおっしゃって、連日、ご来店いただいています。

 そうしたお客様の声は、改めて外食の価値と当社の存在意義を我々に思い知らせてくれました。そこで、当社の「JOY OF LIVING」という理念に「WITH BEER」を加えることにしたのです。「JOY OF LIVING WITH BEER」(生きている喜びをビールとともに)。これが当社の変わらぬ存在意義であり、使命であると確信したからです。

「ライオンのビールが飲みたかった!」という来店客の声を聞き、それまで会社の理念だった「JOY OF LIVING」に「WITH BEER」を加え、サッポロライオンが存在している意義を明確に打ち出した

 現在の出店戦略としては、都心部に集中していた出店エリアを、郊外都市にも拡大することに切り替えました。コロナ禍による行動変容の影響もあり、都心ではなく、地元の小都市で楽しむシーンが定着してきたからです。もちろん、都心部にもチャンスがあれば出店しますが、人手不足という大きな壁があるのも事実。これは業界全体の課題ですが、人への投資、採用と教育の強化に全力をあげているところです。

 海外進出に関しては、“出ていく”のではなく“来ていただく”ことが重要だと考えています。アルコール業態が他国で展開するのはハードルが高いという事情もありますから、外国の方にどんどん日本に来ていただき、店に足を運んでもらう戦略に注力していきます。

 当社は2024年、125周年を迎えますが、これまで育んできたブランド価値、存在意義は、コロナ禍の3年間を経て、なお一層、顕在化しています。疫病・戦争・気候変動など不確実性が高い世の中にあって、当社の持つ変わらぬ価値と存在意義を胸に刻み、お客様の「JOY OF LIVING」に「WITH BEER」というポジショニングで貢献したいと決意を新たにしています。

リーダー×一問一答

■経営者として一番大切にしていること
ポジショニング戦略

■愛読の雑誌やWebサイト
特に決めていない。漫画は「キングダム」。Webサイトは様々見に行く

■日課、習慣
毎朝のランニング(雨天休足)と筋トレ、週末のゴルフ練習

■今一番興味があること
これまでもこれからも健康。全ての活力源。

■座右の銘
「出る杭は打たれるが、出すぎた杭は打たれない」(松下幸之助)

■尊敬している人
「凄いなぁ」と思う人は沢山いるが、「尊敬」と言われると特定の人はいない

■最近、注目している店舗・業態
「ビヤホールライオン 銀座七丁目店」創建89年、現存する日本最古のビヤホールであり、世界に誇れる店だから

■COMPANY DATA
株式会社 サッポロライオン
東京都中央区銀座7-9-20 銀座ライオンビル 5階
https://www.ginzalion.jp/
設立:1949年
ブランド数・店舗数:約20ブランド・直営99店舗、FC2店舗(2023年6月現在)
従業員数:1,449人(社員493人)

飲食店の開業をお考えの方は「ぐるなび」にご相談ください!

「ぐるなび通信」の記事を読んでいただき、ありがとうございます。

「ぐるなび」の掲載は無料で始められ、集客・リピート促進はもちろん、顧客管理、エリアの情報提供、仕入れについてなど、飲食店のあらゆる課題解決をサポートしています。ぜひ、お気軽にお問い合わせください。

▼詳細はこちらから
0円から始める集客アップ。ぐるなび掲載・ネット予約【ぐるなび掲載のご案内】